アプローチについては,2 章で述べた認識論的立場と同様の議論がなされていることである。つまり,音声に対するアプローチの議論は,本質主義的な音声観にもとづく音声教育というアプローチの範疇で活発化し,多様化していることがわかった。多様性を尊重し合う社会の実現をめざすという本稿の立場に立つと,本質主義にもとづく音声観と,教師が教育内容と進め方を決めるという考え方にのみもとづいて議論が進められていることは,課題として捉えられる。規範的な日本語の発音を学習者がめざすべきという前提に立つと,規範的でない日本語の発音をめざしたいと思っている学習者や,めざしたい日本語の発音と現状の発音の間で□藤している学習者が見過ごされてしまう。たとえば筆者がかかわってきた学習者の中に,文末イントネーションを伸ばすことで,自分の穏やかな性格を表したいと考える学習者や,日本語に強弱アクセントをつけて話すことで,男性的な自分らしさを表すことができると感じる学習者がいた。こうした学習者に,自分らしい発音よりも規範的な発音に向かう教育を教師が押しつけてしまうと,学習者のアイデンティティを否定してしまう可能性がある。このように,表現したい自分らしい発音についてしっかりと考えを持っている学習者は少ないかもしれないが,めざしたい日本語の発音と現状の発音の間で□藤している学習者は多いのではないだろうか。実際に戸田(2009)は,学習者に対するアンケートから,「学習者が実生活の中で言いたいことが伝わらないという経験をしており,それが発音上の問題によるものだと認識していることがわかった」と述べている(p. 48)。自身の発音が原因で,□藤している学習者がいることが示されているが,努力さえすれば学習者全員が規範的な日本語の発音を完全に習得できるわけではない。母語の影響を強く受けていたり,日本語の発音に触れる機会が少なかったり,戦略的に母語のなまりを残していたりというようなさまざまな要因で,学習者たちそれぞれの今の日本語の発音が構成されている。理想をもつことはもちろん非難すべきことではないが,理想の発音と現状の発音とを照らし合わせず,いつまでも理想を追い求めることは自己不全感につながる可能性がある。学習者が多様な自分らしさを表現し,社会にかかわっていけるためには,社会構成主義の立場から,こうした理想とする発音と現状の発音の間でせめぎ合いながら,自分らしい発音を見つけ,構成し続ける発音という観点が必要である。教師が教育内容と進め方を決めるという,教師主導の考え方は,上に述べたような学習者を見過ごすことに拍車をかける。教師自身がよいと思う内容の授業を学習者に与えるという発想では,学習者の音声観の多様性について教師が知る機会はほとんどない。教師の独善的な授業に陥ってしまい,学習者のモチベーションを下げてしまうという状況は,残念ながら少なくないように思われる。学習者が何を感じ,何を思い,どのように学んでいきたいのかという視点は,ともによいものをつくっていくという対話的な実践のデザインにおいて重要である。音声に対するアプローチにおいても,教室を一つの多様性を尊重し合う社会として捉えるならば,学習者の音声観と,教師の音声観や音声教育理念を共有したうえで,実践していく必要があろう。以上に述べたように,本質主義の音声観にもとづいた音声教育の範疇でのみ音声に対するアプローチの議論が活発化・多様化していることは,学習者の多様性を尊重するという観点からみた課題である。66早稲田日本語教育実践研究 第11号/2023/55―70
元のページ ../index.html#70