早稲田日本語教育実践研究 第11号
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日本語をめざすということは,言語の多様性を否定することにつながる。言語は単なる記号ではなく,話者のアイデンティティと結びつくものであるため,方言や中間言語といった言語の多様性を否定することは,その話者のアイデンティティを否定することになり得る。本質主義にもとづく教育の捉え方に対する批判から,人びとの多様性を理解し合うこと,そして尊重し合うことを重視する 21 世紀の教育において,従来の日本語教師の役割の捉え方に警鐘を鳴らす立場が現れた。社会構成主義 4)という認識論的立場である。社会構成主義においては,学習者と母語話者のコミュニケーション場面で理解し合えないことを学習者の課題とするのではなく,両者で協働して理解に向かっていくという捉え方をする。教師の役割は,「教える」ということから,皆が学べる相互作用的な環境の提供へと転換しつつある(田中 1996,pp. 32-37,西口 1999,p. 14)。このような立場における日本語教師の役割は,「お互いが場を共有し相互理解に至る道筋を共に創っていく過程が重要であることを訴え,そうした場創りに双方を組織化していくことである」(岡崎 2005,以上のように,日本語教育の文脈では大きく分けて二つの認識論的立場から,日本語教師の役割の議論が進められている。近年,社会構成主義にもとづく教師の役割の論考が増えているものの,本質主義にもとづく教師の役割の論考も依然として見られる。1-2.音声という側面に対する教師の役割に関する議論音声という側面に対する教師の役割に関しては,1□1 で述べたような認識論的立場を踏まえて議論が進められていないという現状がある。教師が学習者の音声を直接的に直そうとする音声に対するアプローチは,音声教育と呼ばれているが,音声教育研究は,日本語音声学から発展し,現在も音声学的な観点から教育に提言するものが多くなっている。したがって,音声教育研究において,認識論的立場や多様性の尊重という観点はこれまで注目されてこなかった。しかし昨今,音声教育という語が持つ意味の曖昧さが指摘され(小河原・河野 2009),教育理念にまつわる根本的な議論がなされていないことが問題視されている(伊藤 2021)。なぜ音声を教えるのか,音声を教えることがどのような意味を持つのかというような議論が進められていないことは,教師の役割そのものに言及している論考が少ないことにつながっている。千(2018)によると,1960 年代から 1990 年代までの日本語教師は,「モデル音を提示し,学習者の発音を聞いて正しいかどうかを判断する」,発音矯正の役割を担っていた(p. 42)。2000 年以降,音声を自己実現の手段として捉えるようになり,「学習者が教室の外でも自律的に音声学習を実現していくために指導・支援することが,新たな教師の役割として現われている」(p. 44)という。こうした音声という側面に対する教師の役割の変容は,日本語教育という文脈の中でどのくらい認識され,議論が進められているのだろうか。音声という側面に着目し,教師の役割にまつわる議論の動向を,網羅的に導き出した文献はない。p. 378)という。場を共有し,相互理解に至る場づくりを教師の役割と捉えた日本語教育のあり方として,協働的学習 5)や総合活動型日本語教育 6)などが提唱された。56早稲田日本語教育実践研究 第11号/2023/55―70

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