(objective construal)」があるとされているが,先行研究(池上 1981,奥川 2007,近藤ほがそれらの自らにとっての関わりを評価及び判断するという認知的な営みであると述べている。そしてその基本類型には「主観的把握(subjective construal)」と「客観的把握か 2014 など)より日本語話者は主観的把握を好むことが明らかになっている。主観的把握は,認知の主体としての話者が言語化の対象となる事態の内に自らの身を置くというスタンスである。以下の例 1)をみよう。例 1) 〔財布を盗まれたことを届け出て〕 英語:Someone stole my wallet. 日本語:財布を盗まれました。 (池上 2006a:162) 池上は,例 1)のような財布を盗まれたことを届け出る状況で,英語は上述したように起こった事態だけを客観的に使える(客観的把握)のが普通であるが,日本語は「受身」の形で言語化した方が,被害届けを出すような場ではふさわしい言い方であるとした。つまり,日本語話者は主観的把握を好んでいるため,財布がなくなった状況を自分との関わりをもたせて表出し,それが受身という形で言語化されるということである。学習者の誤用には様々な形態があるが,日本語話者はどこか不自然さを感じてしまう誤用は,上述した日本語話者の事態の捉え方と異なるためであるものが多い。授受表現の補助動詞としての使用はその代表的な言語表現であると言える。例 2) アン:このあいだ飛行機に乗ったとき,隣の人が私に話しかけました。上記の例 2)は事実を中心に何が起こったのかをそのまま伝えているが,日本語話者が好む主観的把握からすれば,誰か他の人に起こった話をしているように感じられる。池上・守屋編(2009)は,方向性を持つ動詞の場合,話し手に向かう動きについてはそのことを示す有標の形が必須となり,日本語話者はその行為が自分にとってどういう評価を持つのかを評価してマークの仕方を選択するとしている。つまり上記の例 2)は,隣の人の行為が自分にとって迷惑的な行為だったのか,それとも恩恵的行為であったのかによって「隣の人に話しかけられました」,もしくは「隣の人が話かけてくれました」となるということである。初中級,あるいは中上級学習者の作文などを見ていると,例 2)のような不自然に思える表現が散見される。筆者はこれまでの研究で日本語話者の事態の捉え方について初級レベルから明示的な指導が必要であると論じてきたが,それに関する実践的研究は管見の限り見当たらない。そこで本稿では日本語話者の主観的把握がよく表れる「授受表現」(補助動詞としての使用)を対象に日本語話者の主観的把握を明示的に指導した後,それが作文にどのように反映されたのかを分析してまとめる。 (池上・守屋編 2009:87)早稲田日本語教育実践研究 第10号/2022/29―36 30
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