早稲田日本語教育実践研究 第9号
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1巻頭エッセイ留学センター所長 エルウッド ケイト早稲田日本語教育実践研究 第 9 号 2012 年の秋に早稲田大学の留学センター所長になってから日本語教育研究センターのすばらしさを知った。最初は数字に圧倒された。2500 人の学生が毎週 650 の日本語のクラスを受講しているというから驚きである!次に授業のラインアップにも感動した。「ライフストリーインタビュー」,「キャラクターが話す日本語」,「自分史を書く」,「食と私で学ぶ日本語」「生活マッピングから学ぶ自分に役立つ漢字・漢字語彙」,「公共広告から日本を考える」など目を引く科目ばかり。私が日本語を学んでいた頃を思い出した。私は 1981 年,大学 2 年生の時に日本語の勉強を始めた。入学当時ブリンマー大学では外国語の履修要件として 1 つの言語を 4 年間または 2 つの言語を各 2 年間学習することが規定されており,中学 1 年生の頃からずっとフランス語を学んでいた私は,大好きなフランス語を 4 年間履修するつもりでいた。しかし大学 1 年生が終わる頃に「本当にこれだけでいいの ?」というような疑問を持つようになった。異なる言語に挑戦するスリルをもう一度体験したかったのである。英語とフランス語からなるべく遠い言語を選択したいと思っていたところ,世界最古の心理小説が源氏物語だと聞き日本語への興味が湧いた。当時ブリンマー大学では日本語学科はなかったものの,近隣のペンシルベニア大学で日本語を共通科目として受講できることになっていた。そこで週 4 回朝一番にフィラデルフィア郊外のブリンマーの寮からダウンタウンのペンシルベニア大学に通い始め,その後,同大学に編入するに至った。日本語を履修するきっかけは人によって様々。私が学び始めた頃はまだアニメがあまり普及していなかったが,日本語のクラスは私のように日本文学が好きな人のほか,空手,茶道,日本車などに興味を持った個性豊かな人で溢れていた。日本語の先生は私たちをフェアマウント公園にある日本庭園の松風荘に案内してくれ,『砂の女』が上映されると映画館にも連れて行ってくれた。『砂の女』は私が見た初めての日本映画で,「別に」という台詞だけ聞き取れたことを覚えている。字幕があってよかった。日本に留学したのは 1983 年。到着してすぐに自分の日本語力の乏しさを思い知った。ほとんど何も聞き取れなかったのだ。アメリカでは先生がゆっくり,はっきり話してくれたが,現地では状況が全く違う。その頃の東京は英語の看板が少なく,当然インターネットも存在していなかったのでナビゲーションなどもない。留学に対する自分の考えの甘さ日 本 語 の 思 い 出

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