早稲田日本語教育実践研究 第8号
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39論文新井久容/国際問題と<個人的な経験>を結びつけるの学習者の<個人的な経験>であり,「コメントシート」を書いた学習者エイにとっては単なる情報にすぎなかったと言える。「〜という話が出た」という表現はそれを示している。後半の「もし有効な交渉ができなければ… (中略) …考えられる」の部分も,実際に学習者エイが「考えた」,というよりは,既にそのように「考えられた」内容について,そうであると「考えられる」と判断したと推測される。このような一般的な表現は,学習者が国際問題について話したり書いたりする際によく用いられるものである。このように,自分自身の経験や他の学習者の経験が語られたとしても,それが,特定の問題意識(視点)を経ない限り,単なる<個人的な経験>にとどまる。個人の経験は,並列されているだけである。つまり,経験自体は意識されているが,その経験について明確な意味づけがされていないということである。しかし,ここに,特定の問題意識ともいえる「歴史認識」という視点が入ることによって,その記述は大きな変化を見せる。3-2-2.<個人的な経験>から<主体的な主張の基礎>へ以下は,同じ学習者エイの「コメントシート」の「授業テーマについて」欄の中で「議論を通して得た新しい視点」として書かれたものである。これについて検討していきたい。 歴史に対する見解の違いも,問題解決のバリアーになるとグループでは思われる。そもそも歴史学習の重要な役割とは,人の考え方を作り出すではないかと考えた。 人々は自分すら知らないうちに,周囲に影響され,常に与えられた立場から考えるではないかなと思った。… (中略) … ここで疑問だと思ったのは,立場があるというのは悪いことなのか。確かに先生が言った通り,立場がなければ歴史を見れないし,立場があるこそ見方を考えることができる。感情的にならず,思い込まずという二つのことが国際問題や歴史を分析するときに重要だと私は考える。冒頭,グループ活動において,「歴史に対する見解の違い」が「問題解決のバリアーになる」ことが確認されている。特定の問題意識ともいえる「歴史認識」という視点が,このグループでも共有されていたことが,「グループで思われる」という記述からわかる。これは,グループ活動の前に授業担当者から導入され,学習者たちに意識づけるよう試みられた。しかし,ただ言葉として導入されただけではない。このグループでは,グループ活動①において,日韓政府の「歴史認識」を巡る違いが問題として既に言及されていた。それが,再度,授業担当者からクラス全体に確認されることによって,より明確に議論の方向性が示されたと言える。グループ活動②の開始時は,学習者エイを含む学習者たちそれぞれの歴史学習の経験や,それを通して感じたことや思ったこと,つまり,学習者の<個人的な経験>がともに交わることなく紹介されているに過ぎなかった。それが,この特定の問題意識「歴史認識」という視点を通して,それらの経験の意味を考えることが促される。今までそれとは意識していなかった自らの歴史学習/教育が,実は(よいとか悪いとかではなく)ある意

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