37論文新井久容/国際問題と<個人的な経験>を結びつけるよって違う」,「国内でも違う」,「人の(歴史的事実への)関わり方によっても違う」などの意見が出されている。必ずしも双方が一致するわけではないことが,学習者の経験から語られている。Q1 によって明らかにされた歴史学習の経験の違いが,Q2 によって国家の関わり方の違いによるものであると認識した学習者からの問いだったのかもしれない。Q1 と Q2 の答えに基づいて,学習者が自分で問いを立てている。この後,「歴史はいろいろな見方を学ぶ」ものであると,Q4 の問いに対する答えを先取りするような答えが別の学習者から出されたことによって,グループ活動は Q4 に進んでいく。Q4:歴史を学んで何が得られるのかQ5:真実な歴史を学ぶことができるか上記「歴史はいろいろな見方を学ぶ」から,Q4「歴史を学んで何が得られるのか」という歴史を学ぶことの意味の検討に続く。それに対する学習者の答えは,「今がなぜ今であるのか」,「歴史は秩序」,「国民をつくる」,「歴史は悪感情もつくる」などである。「歴史」の意味が正面から問われている。そして,歴史には国家が関与し,国家によって真実と認定されるという側面を持つことが指摘される中で,それが,Q5「真実な歴史を学ぶことができるか」という問いへと続いていく。その答えは,ひとの「認識」そのものの意味を考える議論となっている。特に,真実や事実をめぐるひとの「認識」とはどのようなものなのかについて検討され,「現実というのは現実に基づいてつくられたもの」,「皆が認めるなら社会的な事実になる」,「皆が信じれば歴史になる」,「実際に何が起こったことよりも皆がどう思っているか」,「信じたいか,信じたくないか」と捉えられていく。学習者の<個人的な経験>が語られることから始まった議論(Q1)は,個々の経験に共通するものとして,歴史と「国家」との関係の指摘(Q2)へと続き,国家の歴史観と個人の歴史観へと展開していく(Q3)。そこから「歴史」とは何であるのか(Q4)や,歴史の真実や事実をめぐる「(ひとの)認識」とはどのようなものであるのか(Q5)という,ことばの意味を検討していく内容へと発展している。ここで示されているのは,個人的な経験談から始まった学習者の活動が,「歴史認識」をめぐる意味の再構築になっているということである。しかし,学習者たちの議論はそこで終わらない。上記の議論と同時に,歴史が現在進行中であることを強調し,「自分たちも歴史をつくっている」,「現在は将来の歴史」,「自分たちも歴史だろうと思う」と述べる。そして,「教育の影響はあるが,そのことの意識化が必要」,「今の考え方が変わったり… (政治体制が)百年後それも変わっていたら,また歴史が変わりますよ」,「今は(歴史を)隠すきかいはないですよ」と,「歴史」を決して固定的には捉えていないことがわかる。学習者たちは,「歴史」を「認識」することについて,その意味を冷静に検討しつつ,それを未来に向かって開いてもいると言えるだろう。上記の中で,どの時点で<個人的な経験>が,単なる経験談の語り合いでなく,<主体的な主張の基礎>へと転換したのかを特定するのは困難である。ただ,Q1 で「経験自体」が扱われていたのに対して,Q2 や Q3 では「経験を通して」国家という概念が浮かび上がってくる。Q1 では「個人的な」経験に限られたものが,Q2,Q3 では「個人を超え」
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