早稲田日本語教育実践研究 第8号
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30早稲田日本語教育実践研究 第8号/2020/29―43ている。これを再検討して大学における新たな教育プロジェクトへとつなげた河井(2017)が示しているように,経験は学習者の対象への関与や省察,成長という観点から重要視される。直接経験したことは,自分自身の関心から自分に結びつけた問題として考えることができる。再検討して自らの考え方に向き合うことも可能になるだろう。しかし,経験できない場合は,たとえば,筆者が授業で取り扱っている国際問題の場合,学習者は教育やメディアを通して情報や知識を受け取ることが多い。それらの中には,送り手の解釈や意図が入っていたり,時にはステレオタイプ化されていたりするものもある。それらを当然のものとして受け入れてしまうと,自分自身で考えるといった意味で主体的に関わること,たとえば,自分自身の見解を述べたりそれに基づいて議論したりすることがむずかしくなる。ではどうすればよいのか,という問いが本稿の出発点である 2)。1-2.本稿の目的このような問題意識から,本稿では,個人が直接経験できない問題をどのようにすれば学習者が主体的に考えられるようにすることができるのか,そして,それを日本語教育のコミュニケーション活動としてどのように構想できるのかについて検討していきたい。直接経験できない国際問題であるが,結局,ひとは個人的な経験を出発点として考えるということを前提とするほかない。一般的に,ひとの考え方は生まれ育った環境の中で育まれると言われる。どのようなものに,どのように接してきたのかという経験が,そのひとの考え方を形作るということだろう。この場合の「経験」とは,「直接体験した事柄にとどまらず,直接・間接的に見たり聞いたりした重層的な事柄」と広く捉えて定義づけておく。何かを考える際に,様々な情報や知識を含む経験を参照することは避けられないように思われる。もちろん,個人的な経験は,あくまでも個人をめぐる特定の環境におけるものであり,その経験にどのような意味があるのかについて再検討されない限り,それが絶対化されてしまう恐れもある。ただ,自分とは切り離せないものとして問題を捉え考えていくためには,自分の経験とともにその問題を捉え直していくしかないのではないか。<個人的な経験>ではあるが,それを考える材料にすることができるならば,それによって自分自身と問題とを結んで考えられる,つまり,主体的に考えたと言えるような主張ができる可能性がある。したがって,筆者は,<個人的な経験>を特定の問題意識(視点)を通して<主体的な主張の基礎>に変えていくような教育実践を試みた。本稿では,そのことを具体的な教室活動の中で提示していきたい。さらに,国際問題を日本語教育において取り扱う場合,社会科や政治などの教科学習と呼ばれる分野と同様の専門的な国際問題自体の説明や分析ではなく,ことばの教育として独自のアプローチがあるのではないかと筆者は考えている。これは,単に授業に議論を取り入れたり,語彙や表現の確認を入れたりするということでは解決されない。もちろん教科学習や言語教育の内容や手法は,様々な目的のもとで様々に構想され実施されているため,それらを否定するものではない。ただ,学習者が問題に主体的に関わるという目的から考えると,その国際問題自体ではなく,それについて個人の考え方をやりとりして,その考え方自体を再検討していくというプロセスが,言語教育においてこそ,より重要視さ

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