3.1 高度な言語知識,日本文化への知識を持った教師を養成・研修する時代(1970 年代)『日本語教育』に日本語教師養成・研修に関する論文が発表されるようになったのは1970 年代からである。1972 年に外務省所轄の特殊法人として国際交流基金が設立され,1973 年には「海外日本語教師研修会」がスタートした。その後,1976 年に文化庁に設置された日本語教育推進対策調査会が「日本語教師に必要な資質・能力とその向上策について」の報告書を提出し,日本語教師に必要な資質・能力を示した。日本語教師養成・研修についての論文が最初に出てくるのもこの時代からである。この時期は,言語や文化に関する知識と教えるための技能を育成する養成,研修が多く行われていた。水谷(1974)は「日本語教師は日本語の言語的要素−音声・文字・文法・語彙等についてかなり高い程度の知識を持ち,学習者の言語的理解表現能力がどのような状況,段階にあるかが判断できなければならない」(p.12)と,日本語の言語的要素知識の必要性を主張している。吉田(1976)は,「短時日のうちにある目的のもとに,できるだけ有効にマスターさせなければならないという条件がある場合には,教師はカリキュラムをできるだけ組織的効果的に学習者に与えることができる専門家でなければならないはずである。」(p.23-24)と,日本語教師は教えるための技能をもった専門家であると述べた。また「日本語教師の基礎的教養としては,日本文学の知識が必須のものとして要求される。」本語教師派遣を行う際,どのような人材を育成するべきかを述べた椎名(1974)は,日本語教師に必要な資質として「日本語,日本語教育について知識を持つことである。(中略)日本語教育の面ではあらゆる期待に応えなければならないし,文学・文化の面,日本の社会についても基礎的な知識を持つ」(p.24-25)と文学以外にも文化,社会についての知識の重要性を述べている。この当時は海外に行く日本人がまだ少なかったという社会事情もあり,日本語を教えるというだけでなく,日本文化を伝えることも日本語教師の役割だったと考えられる。つまり,1970 年代には,日本語に関する高度な言語知識と教えるための技能を持ち,日本文化に造詣の深い日本語教師を育成する養成・研修を目指していたと考えられる。3.2 多様化した学習者の個性や能力を生かした教授ができる教師を養成・研修する時代(1980 年代)この頃内閣はインドシナ難民の定着促進のための諸施策を推進し,1979 年に姫路定着促進センター,1980 年に大和定着促進センターが開所した。1984 年には中国残留邦人やその家族のための中国帰国孤児定着促センターが所沢に設置された。インドネシナ難民の受け入れ,中国残留邦人の帰国がきかっけとなり,地域における日本語教育が開始される。一方,1983 年には当時の中曽根内閣のもと「留学生 10 万人計画」が発表され,21 世紀初頭には留学生を 10 万人受け入れるという国の目標が掲げられた。このような社会情勢の下,文部省の日本語教育施策の推進に関する調査研究会が,21 世紀初頭の国内における日本語学習者を 14 万 2500 人と予想,必要な日本語教師を 2 万 4900 人と試算し,計3.日本語教師養成・研修に関する言説についての変遷(p.26)とし,日本文学の知識の必要性についても述べている。国際交流基金が海外に日19論文藤原恵美・王晶・加藤真実子・倉数綾子・小林北洋・髙木萌・松本弘美/『日本語教育』から見る日本語教師養成・研修に関する言説の変遷
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