早稲田日本語教育実践研究 第6号
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59古屋憲章・古賀万紀子/今あることのつながりを見ていく局,復刻版を出してもいいという話。私のところに来るまでに何点か出してたんですけどね。日本語教材のところでね。そのネタがないかということだったんですけど,私は「あなたのところで出してくれるならやりましょう,それは次の世代のためにとって意味があることだから」と言って,それは何点かやったんですね。5 回出したのかな 22)。簡単な解説を書いて出したんだけれども。それは教材研究の一環でもあると同時に,私が次の世代にできることといったらそういうことかなと思って,やったんですけどね。それで,いろいろ盛んに言ってたのは,これも歴史になるんだけれど,戦時中に,私に言わせれば,国家が実施していた日本語教育という時代があって。日本語教育振興会というのを文部省が作って,そこの中心に座ったのは,最初,松宮弥平だったんだけど,すぐに外されて,長沼直兄が理事長になって,そこでやってたんです。膨大な数の日本語教材を作って,南方や中国に送ったんですね。ところが,終戦になったときに,長沼さんが日本語教育振興会を一応は解散したんですよ。もう理事もバラバラだったのかな。(解散)したんだけれども,戦後すぐに,いわゆる進駐軍というか占領軍が来たときに,面白いと思ったのは,歴史を見ると,長沼さんが昭和 21 年に東京に言語文化研究所というのを作るんですね。どう考えたってあれはおかしいんですよ。戦争が終わってすぐに機関を立ち上げるって普通はありえない。しかも戦時中に非常に大きな役割を果たした人だから,刑務所に行ってもおかしくない。逆に出てきたというんで,何だろうと思ってたんだけれど,よくよく考えればわかるんですね。長沼さんは元々アメリカ大使館で教えてたんですね。で,『標準日本語読本』7 巻を一人で作ったんだけれども。大使館っていうのは,今でもそうだけど,軍人がいっぱい入ってるんです。スパイなんかやるために。軍事情報を集めるために。だから,軍の高官みたいな者が学生って,いっぱいいたんですよ。その人たちがアメリカと日本が戦争になると,(アメリカに)帰って大規模な日本語教育をやるんですね。2 万人ぐらい教えるんだけど,そこで使った教科書が長沼の『標準日本語読本』なんですよ。それはなんでかっていうと,大使館で習った連中たちが,軍の将校たちがそれで習ったから,それを使って教えたわけです。そういう関係があった。それで,終戦後すぐに駐留軍,GHQ が来て,結局長沼さんのところに行ったんです,相談に。長沼さんのところに行って,日本語教育振興会の財産をどうするか,処分しなくちゃいけないって話になって,結局,長沼さんが理事をしてたこともあって引き取ることになった。引き取るにあたっては,もう解散をして,組織がないからっていって,新たに言語文化研究所というのを作って,そこで財産を引き取ったということなんです。財産は何かっていうと,本なんです。古い日本語教材なんです。それをあそこで持ってたんですね。あそこの図書室で眠ってるっていうのは何回も聞いてるんだけれども,私はそこの教材が見たくてしょうがないわけです。性格上あれはオープンにすべきだと,私は思ったんですね。何回か機会があるたびにそういう言い方をしてたんだけれども。結局,現在は,協力してくれた人は,私がこの復刻版を出すときに,そこの校長をちょっと知ってて,できるだけ早い,初版か再版あたりのものを出すほうがその時代のこともわかるし,ということで調べたら,どうも長沼にしかないんですね,一つだけ。で,そこに行ったら「協力します」と言ってくれて,復刻版(を出版するにあたって)は,そこのを借りたんですけどね。そのあとで,みんなのそういう意見があったんでしょうね。長沼では結局やりきれなかった

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