2早稲田日本語教育実践研究 第6号/2018/1―3内部に異なる複数のマインドを持つとも主張する。第二言語,第三言語の習得によって,世界を別の見方で見ることができるようになるのであれば,母語以外の言語を獲得する意義はこうしたところにもあるはずである。 現在,比較文学の一つの潮流となっている世界文学研究の端緒は,中国小説を独訳で読んだゲーテが,これからは国文学(Nationalliteratur)の時代でなく,世界文学(Weltliteratur)の時代だとエッカーマンに語った時にまで遡るが,近くは 2000 年のイタリアの英文学・欧州文学者であるフランコ・モレッティによる,ゲーテ,マルクス,エンゲルスの世界文学概念の再発見を一つの理論的原点とする。世界文学は言語の境界を超え,他言語・多言語で読まれるようになった翻訳文学のことで,比較文学の一形態となった世界文学研究は,文学が翻訳され,伝播し,受容される一連の過程を考察する。世界文学研究の方法論は必ずしも一様ではないが,モレッティはテクストの「精読(close reading)」に対し,「遠読(distant reading)」という新語を拵え,「翻訳を介して」文学を読み・分析することを,遠読の中に組み込んだ。こうした世界文学の思考法・方法論に対しては,当然のことながら反発があり,比較文学者のエミリー・アプターは世界文学批判の急先鋒となっている。アプターは世界文学批判の最大の根拠を翻訳不可能性に求める。翻訳と本の流通の発展により,世界が文学をより広く共有するようになったことを評価しつつも,いかなる言語も他言語への等価での置き換え,交換は不可能であるというデリダやジュディス・バトラーやアラン・バデューらの思想を拠り所に,彼女は「翻訳を介した」世界文学に学問的正当性や意義を認めようとしない。しかし,世界文学研究者も原文の『源氏物語』とアーサー・ウェイリーによる英訳 Tale of Genji を読む経験が,あるいは,原文の À la recherche ている訳ではない。むしろ,文学の翻訳と伝播と受容の過程であらわれる妥協,誤解,ズレ,揺れの同定にこそ,世界文学の研究法の中心はある。世界文学研究は言語を一つしか獲得していない(monolingual)状態を前提としないのである。 努力により高い言語能力を獲得できた人間は幸運であり,逆に,言語能力の獲得を怠った,あるいは,なんらかの理由により,その機会を奪われた人間は,例外はあるにせよ,様々なハンデを背負わされる。トウニー・ハリスンの「V」はまさに後者の現実を,若い失業者やフーリガンの言語の貧困と彼らの蛮行の連動として描き出した。他方で,母語の能力に似て,外国語の習得は他者にたいする理解と尊重と思いやりを育み,逆に,モノリンガルは,時として,無知や誤解や不寛容を増長する。自民族中心主義者の中に多言語習得者は少なく,逆に,地球市民(コスモポリタン)の中に単一言語話者(モノリンガル)は少ない。多言語習得者に内向きは少なく,単一言語話者にグローバルな人間はいない。EU の言語政策である複言語主義(Plurilingualism)は,近代ヨーロッパ国民国家の言語ナショナリズムの歴史への反省と,多文化・多言語共生の新たな価値の創出,すなわち,「均一性なき統合,分裂なき多様性」を意味する EU のモットー「多様性による統合は,EU 市民各人が一カ国語以上の言語を,自分なりの運用レベルでコミュニケーションに使用し,間文化間のやりとりに参加することを促す。複言語主義政策で大事なのは言語スキル獲得という能力の観点にとどまらず,EU 市民一人一人が自らの第一言語だけに閉du temps perdu と井上究一郎訳の『失われた時を求めて』の読書体験が同じものだと考え(Unity in Diversity)」に基づくものである。EU 評議会言語政策部門が提案した複言語主義
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