早稲田日本語教育実践研究 第6号
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55古屋憲章・古賀万紀子/今あることのつながりを見ていく木村先生の最終講義というのが早稲田であったんですよ。その頃,僕はもう東京外大の専任になっていたんですけれども。そのときの最終講義はやっぱりフィリピンに行って最後,悲惨だったということをおっしゃってたんですね 13)。そういうことは二度と繰り返してはいけないというような趣旨だったんですね。そういう話だったので,木村先生はもちろん,戦争に駆り出されて,日本語教師として悲惨な体験を,最後ずっと,辛酸をなめた人ですよね。だからそういう世の中になってほしくないということは最後の講義でもおっしゃってたわけですし。やっぱり自分がそこで教師をしてたということは,ずっと何らかの気持ちはあったんでしょうね。ある種の生き証人でもありますよね,木村先生は。ほかの人が経験してないことだから。そういうことは残しておきたいというのは,やっぱりあったんでしょうね。日本語教育界の中で「日本語教育史をやるべきだ」と言ったのは,やっぱり木村先生が初めだったようですね。ご自身も最初の頃のこと,明治の頃のことを調べて発表したこともあったしね。だからそういう意味では我々の先達だったんですね。(1990 年に)早稲田に来て,教材研究をやり始めて。それで,何のきっかけかわからないんですけれども,早稲田大学の日本語教育がどうなってるかというのを誰かがやらなきゃいけないんじゃないか,というのは思い始めてたんですね。それで,そのときに思い切って大学史資料センターに訪ねて行ったことがあるんですね。「私は日本語教育をやってるんだけれども,そういう歴史の何か史料はあるんですか」と。本当に漠然と,あるかないかも知らなかったんですね。「いや,自分で調べたらどうですか」と言われたんですよ。それで,古い図書館[現:會津八一記念博物館]の裏側に(大学史資料)センターがあって,そこに裏から入って行くと,いろんな史料があったんですね。「自由に見ていいです」って言うから,そこの職員の人に「日本語教育のことを調べてるんだ」と言ったら,「探してあげましょうか」という話になって。「こういうのがありますよ」と持ってきてくれたんですよ。そのときに清国留学生部というのがあるのがわかったんで,「その関係のものが見たいんだけれどどこにあるか」って,そんなのもパッとあるわけじゃないからね。それで,実は関係の史料が,履歴書なんかがあるって,「それ見たい」って言ったら持って来てくれたんです。そのときに清国留学生部で教えた先生の履歴書みたいなものは見られたんですよ。それで,これは何とかしなきゃいけないなと思って,ずっと通い始めてね。そこでコピー取ったりしながら,そのときのカリキュラムがどうなってるかとかね。いろいろ調べていくうちに早稲田はかなり史料が残ってるってことがわかった。そういうことも知らなかったんですよ,私は。大学のカリキュラムは,実はきちんと製本されて図書館にあるんですね。それをずっと繰っていくと,明治何年の科目とか,誰が教えたとかっていうのはちゃんとあるんですよ。それから,卒業生名簿とか,卒業生何人とかっていうのもあるし,調べていけばいくほど,ないことはないんです。それからいろんなことをやり始めて。やっているうちにすごく面白くなってね。それで,1994 年に「早稲田大学清国留学生部」というのを書いたんですね 14)。歴史を形にしたのは,それが最初のきっかけなんですね。その発端は,さっき言ったように,木村先生に「やってみないか,面白いよ,誰もやっていないよ」と言われたのが残っていたんだと思うんですよ。それで,本当に偶然に(大学史資料)センターに行ってそういうことを見つけ始めて,それからずっと図書館にこもって,いろんな史料を調べ始めた。それが非常に面白くなったんで

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