48早稲田日本語教育実践研究 第6号/2018/47―651.どういうふうに授業を教えるかという工夫のようなもの―日本語教育研究のはじまり―本稿は,インタビューの文字化資料を「吉岡先生がどのように日本語教育研究および日本語教育研究者としての自身を意味づけてきたか」という観点に基づき,一人称一人語り形式で再構成したものである。なお,本文中で触れられる吉岡先生の研究業績に関しては,末尾の「表 1 吉岡英幸先生の主な業績」を参照されたい。ちょっと時代が違うかもしれないけど,我々が日本語教師になった頃の時代というのは,研究とはあんまり考えてないんですよ。大学の専任になった先生というのは,当然,教育と同時に研究をしなければいけないというのがあったわけですね。だけれども,僕が学生の頃に早稲田の語研[語学教育研究所]に出入りしていた頃も,日本語教育をしていらっしゃった先生方は,もちろん研究はそれぞれなさっていたと思うけれども,客観的に見て,ほかの学部の先生ほど,研究業績というものがあって,ということではやっぱりなかったと,今になって思うんですね 1)。それはやっぱり日本語教育の歴史がそんなに深くないということも関係してるかもしれないし,日本語教育はやっぱり特殊で,一つの学問領域というのが社会的に見て,まだ基盤ができてなかった,ということと関係してると思いますね。一つには,大学の中で日本語教師が日本語教育の専門として専任のポストがあるという時代ではなかった,ということと関係してるんですよ。ですから,例えば,大学で専任に着任してもらうとか,雇うという場合でも,そういう従来の,ほかの研究分野のような研究業績がある人が応募をして,業績を審査してというふうにしてたら,先生がいないんです。したがって,どうしたかというと,早稲田の場合も,まあ大体,木村(宗男)先生あたりが最初の頃なんですけどね,専任になったのは。木村先生ご自身も長沼[東京日本語学校]で教師をしてらしてて,現場の先生 2)。厳密な意味で(木村先生の)スタートっていうのは,どこかわからないんだけど,フィリピンに行ってらして,帰ってきてという。で,戦後は長沼で教師としてやってらしてた。早稲田も専任が必要だ,日本語教育をやらなければいけないっていう,昭和 30 年かな。戦後,(早稲田大学で日本語教育が)再開されたのは,昭和 30 年なんですけども。初期の頃の日本語の先生というのは,木村先生あたり,永保(澄雄)先生もそうなの,あのあたり 3)。それから,秋永(一枝)先生,田村(すず子)先生あたりが専任になっていらっしゃるというような時代なんですね 4) 5)。その頃を考えてみると,日本語教育の業績がある方が早稲田に来たという。早稲田だけじゃないんですよ。やっぱり日本語教育をしなければいけないとなったときに,教師を探さなければいけない。で,たぶんそういう人間のつながりとかっていうことを見ていくと,やっぱり早稲田の卒業生というのは先に調査があったと思うんですね。それで,木村先生が早稲田出身で,長沼でやってらしたというのもあったと思うし。だから,戦後はまず,そういう意味で現場の経験者を探すというところから始まったという。大学の場合でもね。ただ,早稲田の場合は,やっぱり,ああ,面白いな,と思ったのは,早稲田大学が『講座日本語教育』という雑誌を出し始めるんですね 6)。私も何回か(『講座日本語教育』に)
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