上田潤子/名前とアイデンティティ 954-1.調査協力者 A へのインタビュー 父と母は日本で出会った。A はオーストラリアで生まれ,2 歳から 6 歳まで日本で過ごした。日本の幼稚園に通った。幼稚園の記憶ははっきりあり,当時の友だちも覚えている。その後はオーストラリアで育ったが,何年かに 1 回は家族で日本の祖父母のもとへ遊びに行っていた。中学生のときと高校生のとき,それぞれ 1,2 回,休みを利用して日本へ 2 週間の留学をした。また,高校卒業後,友だちと日本へ旅行をした。現在,オーストラリアの大学の 3 年生で,早稲田に 1 年間の留学中だが,それは高校のときから考えていた。早稲田への留学は母方の祖父の勧めでもあった。■日本人とオーストラリア人うなの?A: 家では,母とは日本語で話してますけど,父とは英語で,で,小学校の頃は日本語に全然興味がなかったんですけど,でも,中学校の頃,2 ヶ月ぐらい日本に来て,その頃ちょっとやっぱり日本語勉強しないといけないなって考え直して,家でもっと日本語話すようになりました。 (中略)A: 小学校の頃は,日本人の血があるって知ってましたけど,「日本人」って気持ちはなくて,小学校の頃はあんまりアイデンティティのこと考えてなかったから,全然もう,普通に。A: 周りは,あたしは小さい学校に行ったので,別に,人種差別とかそういうのはなかったんですけど,でも,あたしともう一人の女の子しかアジア人の子いなくて,で,まあ,あの,なんか,1 回か 2 回はちょっと人種差別っぽい経験がありましたけど,でもあんまりわかってなかったと思います,みんなも。で,オーストラリアの高校に入ってから,だんだんアイデンティティのことを考えはじめて,なんかそういう複雑な時期が(笑)。は……A: 今は,あたしは両方日本人とオーストラリア人,です。A: 両方持っていて,両方持っていなくても,その血があって,家族がいるので。 幼い頃は日本のルーツをあまり意識していなかった。そのため,日本語にも興味がなかった。しかし,中学の頃,母と日本に 2 ヶ月ほど滞在し,日本のルーツを強く意識する4.インタビューI : じゃ,まあ,日本語については,ずっと日本語で話してたってことね。家ではどI : 自分の意識としては「日本人」っていう感じだった?I : 周りも普通に?I : 複雑な時期があったの?そっか。そのときには,結局,じゃ,答えみたいなものI : うん。両方持っている,と思っている。
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