4 4 4 4 4 4 44 4 4 4 4 4 4そのことによりタイ人と対等ではない,一人前の人間と思われていないとまで思った。そこで,「わたし」は,タイ語は話せないが一人前であるために,平畑(2008)が述べる「母語話者性」「日本人性」を利用した。「わたし」は日本語教師であり,日本語の母語話者だから,日本語教師として非母語話者にできないことができるはず,非母語話者より優れているところがあるはずだと思うことにした。611 の「日本語を教えるのはそんなに簡単なことじゃない」には母語話者である611 や 621 の「「わたし」だったら」は,母語話者であるう気持ちがあったのではないだろうか。また,613 で「わたし」がマリ先生が「日本人教師を批判しているようで不快」と感じたのは,日本語を教えるうえでは母語話者教師は非母語話者教師より優れているとどこかで思っていたからであり,だからこそ,母語話者教師と一緒に教えていれば,非母語話者教師であるマリ先生には学びがあるはずだ,という考えにつながったのだといえる。タイ人と対等でありたいと願うが故に,タイ語のマイナスを埋めるために,日本語教師として日本語母語話者であることに優位性を求めていたのだ。しかし,優位に立とうとしている人間と一緒に何かをうまくやっていくことができるとは思えない。また,タイ語が話せないという意識が,日々の生活の中で「わたし」に「タイ人」「日本人」というカテゴリーをより意識させ,二項対立的な考え方が強固になっていってしまったのではないだろうか。7-2. 海外における非母語話者日本語教師と母語話者日本語教師の実践改善のための振り返りに必要な視点 71 では,「わたし」とマリ先生の日本語教育実践がうまくいかなかった要因を 2 点述べた。本節では,それらをもとに,海外における非母語話者日本語教師と母語話者日本語教師の実践改善のための振り返りに必要な視点を 2 点述べる。 まず 1 点目は,実践改善のための振り返りを「せめぎあい」の場にするためには,振り返り時のやり取りに違和感や不快感を持った時,その違和感の要因を自分一人で見つけ出そうとするのではなく,対話により明確にしようすることである。本研究では筆者のインタビュー後の不快感の背景には,「わたし」とマリ先生に価値観の違いがあることが明らかになった。インタビュー時もおそらく実践当時も,その違いは違和感や不快感として認識されていた。しかし,それに対して,何が,どうして違うのかを明確に問うという形で明らかにしようとなかった。つまり,マリ先生の考え,すなわち,「わたし」が違和感を持つ考え方に対して,マリ先生はなぜそう考えるのかを明確に問わなかったし,一方,自分自身にもなぜそう考えるのかを問い直すことがなかった。そして,712 で述べたように,タイ語にコンプレックスを感じ,「タイ人」「日本人」という二項対立的な考え方を強めていた「わたし」にとって,マリ先生がタイ人で「わたし」が日本人であることは,マリ先生と「わたし」の目に見える明らかな違いであり,なぜ考え方が違うのかを明確に問わずとも自分を納得させる丁度良い理由となった。その結果,前章の分析結果に示されたように「わたし」はマリ先生のことが「理解できない」ままでも仕方がないと思うことができ,それ以上関係性を深めていくことがなかった。お互いの価値観がゆさぶられるような「せめぎあい」の場は,関係性を深めていく場ではないだろうか。また,対話を重ね関「わたし」にも難しいのにという思いがあり,「「わたし」だったら」とい89髙井かおり/実践改善のための振り返りを「せめぎあい」の場にするために
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