早稲田日本語教育実践研究 第5号
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おして,教師自身が学ぶプロセス」だとしている。しかし,「わたし」はマリ先生に対して「なぜ」と思っていたが,マリ先生を理解するために明確に「どうしてそのように考えるのか」を問うことはなく,【繰り返し聞き返す】ことで「わたし」を理解してもらうために暗に問うていた。そして,自分の主張を繰り返し,マリ先生のことばには【聞く耳を持たない】でいた。また,自分自身を振り返り,自分自身に「なぜ」を問い直すことはなく,そのため,自分の教育観を明確に意識することも,教育観が変容することもなかった。そして,7­1 に示した自分の価値観を固定化,強化させてしまっていた。つまり,「わたし」はこのタイでの実践で,残念ながら学びのプロセスをたどることができなかったといえる。だから,実践から 2 年が経ったインタビュー時にも,実践時と同じようなことをマリ先生と話し,同じように不快な気持ちになったのだ。舘岡(2010)ではさらに,話し合いの場が「価値観が共存しぶつかり合う場であると同時に,共通理解を深めていく場」でもあるとし,そのような「せめぎあいの場でこそ,自分と周囲との関係や自分と現在の学びとの関係を問い直す機会が生まれている」と述べている。「わたし」とマリ先生がともに学び,実践を向上させていくには,価値観がぶつかり合い,そしてお互いに理解し合うような「せめぎあい」の場が必要だったのではないだろうか。しかし,実際には,マリ先生はパートタイムということもあり,1 時間の授業の準備のための時間すら十分にとることができなかった。5­2 で述べたように,「わたし」とマリ先生の関係は良好であったが,「せめぎあい」の場を持つことはなく,お互いに価値観をゆさぶられる機会を持つことができなかった。7-1-2.タイ語コンプレックス 「わたし」のマリ先生との実践がうまくいかなかったもう一つの要因は,タイ語が話せないという「わたし」のコンプレックスではないだろうか。分析結果から見える「わたし」は,すべて自分が正しいと考えており,全く相手のことを理解しようとしない,自分勝手な人間のようだ。このような人間が,誰かと一緒に何かをうまくやっていくことができると考えるのは難しいように思われる。しかし,それでは「わたし」はあまりにも人間性に欠けているのではないだろうか。平畑(2014)は 26 ヵ国・5 地域で日本語教育に携わる 41 人の母語話者および非母語話者日本語教師へのインタビュー調査の結果から,母語話者日本語教師に望まれる資質の中で教師教育者が最も重視すべきなのは「人間性」だとしたうえで,「海外で日本語を教える母語話者教師が,「人間性」を欠く人物ばかりだとは考えにくい」,「その土地において「よその人」であり,「他者」である」ことが「誤解を生みだす素因として作用するのではないか」(p.246)と述べている。筆者は日本語母語話者である日本語教師が自分の母語である日本語が通じない社会に生き,日本語を教えているという状況も一因ではないかと考える。「わたし」はタイに行く前にタイ語を勉強したが,タイ語の力をつけることができなかった。そのため,タイではタイの人たちと仲良くなって,タイ語が話せるようになりたいと強く願った。しかし,それは実現できなかった。そして,6­1­2 では,タイ語ができないから生徒たちを授業に集中させることができないとか,6­2­2 では,タイ語ができないから生徒たちに心が伝わらないとか,自分にはできないことをすべてタイ語ができないからだと思うようになった。さらに,6­2­2 では,88早稲田日本語教育実践研究 第5号/2017/75―92

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