髙井かおり/実践改善のための振り返りを「せめぎあい」の場にするために 2.クラスコントロールはタイ人教師がするべき 3.マリ先生はいろいろな日本人教師と一緒に教えることで学ぶことがあったはず 4.クラスメートの発表を聞くのは当たり前 5.「わたし」はタイ語が話せないからタイ人と対等ではない 6.「一緒に教える」とは教案作成からすべてを一緒にやること しかし,人間は一人ひとり違うのだから,価値観が違うこと自体は問題ではない。問題はこれらの違いをどうするかだ。インタビュー時にこれらの価値観の違いでコミュニケーションの齟齬が生じた時「わたし」がとった行動は,1,2,3 ではそれぞれの価値観から「わたし」がマリ先生に期待していたこと,1 では「わたし」と同じように教案を書いて授業準備をすること,2 では「わたし」のタイ語が話せなくて辛い気持ちを理解すること,3 では 5 年間の経験から「わたし」が考えるような日本語教師としての成長を意識していること,が聞きたいために質問を繰り返した。そして,4,5,6 ではそもそもマリ先生の意見を聞こうとはしておらず,自分の言いたいことを言っているだけであった。このことから,「わたし」はマリ先生との日本語教育実践時にも同様のコミュニケーションをとっていたと考えられる。これらの「わたし」の行動から「わたし」とマリ先生との実践がうまくいかなかった要因を以下に 2 点述べる。7-1-1.「せめぎあい」の場がなかったこと 「わたし」とマリ先生の実践がうまくいかなかった要因の一つは「せめぎあい」の場がなかったことである。インタビューの中で「わたし」は自分の価値観と異なることをマリ先生が返してきた時には,それを自分に合わせるために【繰り返し聞き返す】ことをしたり,そもそも【聞く耳を持たない】ということをしたりした。これは自分が正しいと思っている態度であり,全く他者を受け入れない態度である。そして,すべてにおいて「わたし」に合わせてマリ先生に変わってほしいと思っている。それは,71 で示した「わたし」の価値観 1 では「わたし」がやるように教案を書いて授業準備をしてほしい,2 では「わたし」の気持ちを理解して,進んでクラスコントロールをしてほしい,3 では一緒に教える相手から何かを学んでほしい,4 ではクラスメートの発表を聞くことは当たり前だと考えてほしい,5 ではタイ語が話せなくても対等だと認めてほしい,6 では教案作成からすべて一緒にやってほしい,である。もし,マリ先生がこれら「わたし」の期待に沿うように自分の考えを変え行動していたら,「わたし」とマリ先生の実践は表面上うまくいっているように見えたかもしれない。しかし,筆者が望んでいるのは一方がただ他方に合わせるだけの見せかけの良い実践ではない。 舘岡(2008)は実践研究とは「教師が自らのめざすものに向けて,その時点で最良と考えられる学習環境をデザインし,よりよいと思われる実践を行い,それを実践場面のデータにもとづいて振り返ることによって,次の実践をさらによくしようとする一連のプロセス」(p.43)だと述べている。そして,舘岡(2010)では,実践研究のプロセスは「実践とその振り返りの中で,実はあいまいであった教師自身の教育観が意識化されたり明確になってきたり,あるいはまた,問い直しが起きたり,変容を遂げたりすることをと87
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