早稲田日本語教育実践研究 第5号
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の不快感も筆者の「構え」,すなわちマリ先生に対する先入観や期待に起因していたのではないだろうか。石川(2012)は,「調査者が自らの構えを捉え返していく過程は,調査者と調査協力者がともに生きている社会を明らかにしつつ問い直す過程」であるとしている。そこで,本研究では,マリ先生へのライフストーリー・インタビューに表れた筆者の「構え」を詳細に見ていくことで,筆者自身の実践を本インタビューから振り返り,「わたし」とマリ先生が 2 人で行った日本語教育実践に潜んでいた「日本語非母語話者」「日本語母語話者」の違いに収斂されない,やりにくさの要因を明らかにする。そのために,まず,インタビューの中から,コミュニケーションに齟齬が生じていたり,筆者が違和感を覚えたりしたやり取りを抜き出した。そして,それらのやり取りの中には「わたし」のどのような「構え」があるのか,そして,その「構え」があることで「わたし」はマリ先生とどのようなやり取りをしていたかという観点で分析した。その結果,「わたし」の「構え」は「わたし」の価値観の表れであり,マリ先生の価値観と違うことがコミュニケーションの齟齬や違和感につながっていることがわかった。そして,そのことに対して「わたし」は【繰り返し聞き返す】【聞く耳を持たない】という方法で対処していた。以下に,それぞれについて記述する。(インタビューデータの M はマリ先生,K は筆者である「わたし」)6-1.【繰り返し聞き返す】 「わたし」はマリ先生との日本語教育実践においてある価値観を持っていて,インタビューの中ではそれが「構え」となって表れていた。そして,マリ先生から「わたし」が期待していたことが語られなかった時,「わたし」は言い方を変え聞き返していた。どうしても自分が期待した答えがほしかったのだ。6-1-1.日本語を教えるのはそんなに簡単なことじゃない マリ先生が日本語を教えるようになった時の気持ちを聞いた時のことである。  K : S 中高校で教えるようになったじゃないですか。その時,どうでした?行く前,ドキドキするとか。  M: そうですね。今まで,教師になろうという気持ちは全然なかったんですね。だから,何回も紹介されて,だから,うん,やってみたいという気持ちもあって,でも,あんまり自信もなかったんです。一度,B 先生(当時の日本人日本語教師)教えてた時に見に行ったんですね。1 回,見に行ったんです。まあ,なんとかできると思って,ちょっと自信がありました。 マリ先生は 1 回授業を見ただけで「できる」と自信を持ったのである。「わたし」は,日本語教育を学んだし,以前中学校で英語を教えていたこともあり,授業をすることに少しは慣れていたかもしれない。しかし,その分,授業をするのはそんなに簡単なことではないと考えていた。そして,このマリ先生の言葉をすごいと思うと同時に「そんなに簡単にできるわけがない」と信じられなかった。そして,マリ先生が考える「できる」が何を79髙井かおり/実践改善のための振り返りを「せめぎあい」の場にするために

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