制をとっている。 マリ先生は,2007 年度から S 中高校でパートタイムとして働き始め,インタビュー時には 5 年が経とうとしていた。筆者はマリ先生が S 中高校で働き始めた半年後である2007 年 10 月から S 中高校に赴任し 2 年間日本語を教えていた。S 中高校には当時もう一人,マリ先生と同時期に働き始めたパートタイムのタイ人日本語教師ポーン先生(仮名)と,フルタイムで英語と日本語を兼任していたタイ人教師がいた。このフルタイムの教師はインタビュー時には日本語は担当しなくなっていた。また,筆者以外にもう一人母語話者日本語教師もいた。 マリ先生は,タイで大学を卒業後,日本へ留学した。日本ではまず日本語を学びながら研究生として微生物学を研究した。その後,大学院へ進学し修士号を取得した。修士号取得後タイへ帰国し,就職,結婚し,それ以来,ご主人とともに商売をしている。そして,それに加え S 中高校でも働くようになった。日本留学後タイに帰国してから S 中高校で働き始めるまでの間は,日本語や日本語教育に関わることは一切なかった。5-2.筆者である「わたし」 「わたし」は大学卒業後,公立中学校で英語教師として働き始めた。しかし,英語教師を 4 年で辞め,留学と転職を経験後,日本語教師を目指した。そして,日本語教育能力検定試験合格後,2007 年秋にタイへ行きマリ先生と一緒に日本語を教えることになった。マリ先生は,ちょうど「わたし」の姉と同じ年であり,また,学校の近くに住んでいることもあり,「わたし」たち外国人教師の世話をよくしてくれた。インターネット回線の設置など住まいに関することから,「わたし」たちを車で買い物に連れて行ってくれたり,一緒に食事をしたりと本当の姉のように,あるいは母のようによくしてくれた。 「わたし」がタイへ行ったのは,青年海外協力隊のボランティアという立場であり,派遣前にはおよそ 3 か月間の派遣前訓練を受けた。その中にはタイ語学習も含まれており,タイ語の基礎や簡単な会話を学んだうえでタイへ向かった。しかし,タイ語学習は「わたし」にとってはかなり辛いものであり,毎日一生懸命勉強しているにも関わらず,タイ語力がついているとはとても思えず,全く自信がなかった。半面,「わたし」にとっては,この時初めて日本語を教えることになったにも関わらず,今思えば,英語教師であった少しの経験から来る,授業をすることに対する多少の自信や,日本語教育能力検定試験に合格したという自負がどこかにあったような気がする。 第 2 章で筆者は「インタビュー後に何とも言えない不快感が残った」と述べたが,果たしてそれは何だったのだろうか。桜井(2015)では,桜井自身が過去の自分のインタビューを振り返り,苛立ちや違和感,戸惑いを感じた経験が多くあると述べている。そして,それは「語り手の語りたいことと調査者の聞きたいことの齟齬が原因」(p.31)であり,「調査者が自分の先入観や期待をもとに語りを聞き,その結果,聞きたいストーリーを聞いている」(p.29)とし,その態度を「構え」と呼んでいる。筆者のインタビュー時78早稲田日本語教育実践研究 第5号/2017/75―926.分析結果
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