早稲田日本語教育実践研究 第1号
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●68の教壇に立つ教師とは向き合わせになるが,前に座っているクラスメートは背中しか見えず,また隣や背後にいるクラスメートの顔や表情は見えない。こうして,学習者は,顔のない集団の中に埋没した状態で孤立感を味わうことになる。これは,旧来の教室デザインでは,学習者が教師のみに焦点を合わせ,他の生徒に気を散らされることなく復唱や暗唱だけに集中できることに重点が置かれているためである(田中1999)。さらに,旧来の教室配置の場合,教師側からは教室を全体として見渡すことができるが,学習者の視点からは教室全体を把握することは難しい。これは,旧来の標準型教室が,「他の生徒への,学校の統治を妨害するような誘惑と刺激をすべてとりはらい,教師の生徒全体への不断の完全な監督が可能」(Barnard 1848)となることに重点が置かれているためである。つまり,従来型の教室では,教師は教壇に立ち,あるいは机間巡視により,学習者ひとりひとりを常に「監督」し,さらに全体を把握することもできる。ところが,学習者が他の学習者に興味を持つことは教室運営の「妨害」とみなされ,禁じられていたため,学習者同士なるべく互いの視野に入らないようにデザインされているのである。このように,旧来の教室デザインは,教師主導のペダゴジーに基づいて学習者にレシテイションをさせるには最適だが,現代のペダゴジーが求めている支持的教室風土のような調和した共同体的意識は育ちにくい。こういった教師に従属せざるを得ない旧来の教室形態を強く非難して,Brown(1994)は,「学生たちはチームのメンバーであり,互いに顔が見えて,話すことができなければいけない。彼らを軍隊に入ってしまったように感じさせてはいけない」と述べている2)。さらに,旧来の教室デザインの場合,席順がそこに座る学生のステータスや授業への参加態度に影響を与えるため,現代のペダゴジーを推進するうえで明らかな不平等が生じることを,Dörnyei, Z. & T. Murphey(2003)が指摘している。つまり,机の配置や座る場所によって,学習者がリーダーシップを取る機会やグループ活動を共にするメンバーの選択,他のクラスメートと知り合う機会などに影響を及ぼすというのである。実際,日本における日本語教育で,伝統的な碁盤状の机配列の教室で教える場合,前列と後列,あるいは教室の中央と端では,教師のアテンションの度合いが異なることは周知の事実である。教師からのアテンションが外れがちな後列や端に座った学習者は,授業への参加度も見過ごされやすく,授業へ参加するためには大きな動作で手を挙げたり,大きめの声で発言するなどして教師のアテンションを引かなければならない。いっぽう,前列や中央に座った学習者は,教師のアテンションを得やすく,軽く手を挙げたり,普通の声で教師に応えたりすることで,楽に授業参加できる。いっぽう,準備不足の学習者がいた場合,教室の中央に座ることは,教師の注意を引くリスクも高いので,自然,教室の端の席へ座ることになる。このように,伝統的な教室配置では,着席の位置により,授業参加の度合いや,ひいてはリーダーシップを取るような機会にも差が出てくることは学習者の目にも明らかで,これでは,学習者たちが互いに対等感や平等感を持つことは難しい。そこで,今日のペダゴジーや学習形態に合わせ,支持的教室風土の醸成に向けて,ラポール構築に資するようなスペースを確保し,教室環境を新たに整備し直すことは,今や急務となっているのである。早稲田日本語教育実践研究 第1号/2013/65-73

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