早稲田日本語教育実践研究 第1号
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●67間に密接な関係があることを指摘している。たとえば,炭坑や潜水艦,宇宙船といった危険な作業環境においては,そこで作業に従事する者同士のインターアクションも,協力して争いを極力避けるといったように,環境に応じた独自の形を取ると言う。そういった環境で作業に従事する者たちが,自分たちの置かれた環境の特殊性や危険性に関する認識を共有した結果,独自の潤滑なインターアクションが自然発生的に生成されるのである。ここで言うインターアクションとは,双方向の対話のみならず,互いの外観や表情や動作を視認する相互作用も含まれる。それでは,日本語の「学習コミュニティ」に参加している者たちは,対話等の学習活動に参加する以前の段階で,互いの異質性や,異文化の共存する教室の特殊性について充分認識し,また,その認識を共有できているだろうか。池田・舘岡(2007)は,日本語教育における協働学習を,多文化背景の参加者同士が互いの存在を尊重し,「『対等』を認め合い,互いに理解し合うために『対話』を重ね,対話の中から共生のための『創造』を生み出すもの」と定義している。さらに,舘岡(2012)は,この協働を中心とした日本語による多文化共生の文脈を「学習コミュニティ」として捉え,言葉だけでなく自己表現を学び,他者への理解を深めていく「社会的な実践」の場と位置づけている。さらに言えば,近年の日本語教育が目標としている多文化共生という教室形態は,国家や民族のみならず,ジェンダー,世代,あるいは障害の有無など,多岐に渡る互いの異質性や文化差を超えたところで営まれるはずである。つまり,それぞれ独自の文化背景を担い,互いの異質性で区分されていた者同士が,それまでの社会的次元とは異なった新しい次元で,日本語教室という学習コミュニティを創造することになる。そこで,そういった新しい環境を築くにあたり,旧来の教室環境をそのまま当てはめたのでは,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるたとえにも似て,数々の不都合が生まれるだろうことは言を俟たない。日本語教授法が進化し,新しい教育理論が次々に取り入れられる中,教室環境だけは変わらないというのは驚くべきことである。一般的に教室というと,私たちは,黒板の前に教壇があり,教師に向かって,学習者の席が碁盤状に並べられた伝統的な教室風景を思い浮かべる。田中(1999)の学校建築に関する研究によると,今日広く普及している標準型教室の原型は,19世紀の欧米にさかのぼると言う。田中は,ヘンリー・バーナード(Henry Barnard 1811〜1900)の著作『学校建築』から引用し,今日の標準型教室が米国で採用された経緯を述べている。米国北東部コネティカット州教育長を務め,『アメリカ教育雑誌』(American Journal of Education)を主宰したバーナードによれば,伝統的に今日まで使われている教室配置は,19世紀初頭の米国で,教師が生徒全体を不断に監督できるように設計された「教師のための教室アレンジメント」であり,「レシテイション(復唱)」のための座席配置であると言う(Barnard)。つまり,今日,標準的教室デザインとされている座席配置は,旧来のペダゴジーである教師中心の一斉授業やレシテイションと結びついているのである。これを,近年の,学習者を主体とするコミュニカティブ・アプローチや協働学習,さらに,よりホーリスティックなペダゴジーのための標準教室とすることは不自然であると言わざるを得ない。Dörnyei, Z., & T. Murphey(2003)は,物理的な環境と,その中で発生するグループ・ダイナミクスとの間に密接な相関関係を認め,旧来の教室環境に現代のペダゴジーを当てはめたために生じる弊害を挙げている。たとえば,従来の教師主導型の教室形態の場合,授業中,ひとりひとりの学生から教師の姿はよく見えても,学生同士は互いの顔が見えにくいため,学習者はそれぞれ孤立していることが指摘されている。実際,日本語学習者が教室のマス目のひとつに座ってしまうと,正面泉水康子/支持的教室風土をめざしてエッセイ&インタビュー/エッセイ

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