●59学生は1年後には国立大学に進学していくということが約束されているため,落ちこぼれっていうのは許されないんですね。クラスは文科系と理科系に分かれていて,理科の先生もいるし,経済なんかの先生もいるんです。健康のためにも体育の授業もあった。課外活動とかも,5月に高尾山ハイキング,6月はスポーツ大会とか,秋に運動会とか修学旅行とかもやっていましたね。日本語のクラスは,原則として二人で1年間責任をもって担当のクラスを受け持つんですよ。導入と練習という言い方をするんだけど。聴解は別にクラスをいくつかまとめてやるというやり方をしていました。日本語を教える教師は,いつも顔を合わせ密な連絡を取っていました。個々の研究室がなく教師は大部屋です。部屋に閉じこもったら指導ができないから個室の研究室は作らないという方針だというんです。びっくりしたのが,日直という制度があったんです。教師は夜9時まで必ず誰かいなきゃいけない,質問などに来る学生のために。寮があるため職員は宿直があり,専門の寮監もいるのに。教育機関として理想的なことを考えて作られた学校でした。当時の日本語学校の授業や学生のことを同僚3人で書いた本が『一年で社説が読めた』です。研究社から出版されました。この学校の学生は,それぞれの国から選抜された優秀な学生なんですね。1年間で,日本語ゼロの人たちが最後当用漢字1850字をほとんどマスターします。学期ごとの試験をやっても平均点90ぐらいですよ。1年後には大学に行かなきゃいけない,結局,困るのは自分だって知ってるんです。成績によって進学先が決まるということも無関係ではないだろうけど。8時半から4時10分まで授業があったんですが,4時10分に終わって先生が教員室に帰って来て一休みし,授業の引き継ぎや打ち合わせなどをするでしょ。そろそろ帰ろうかと思うと,夕食をすませた学生が,寮から「先生,質問があります」って来るわけですよ。それで帰れないんです,8時,9時までということもしばしばありました。もちろんできない学生を教師のほうから呼び出して補講することもあります。ある先生が,一週間どのくらい課外の指導をしたか調べてみたら,一週間の担当している授業数より多かったんですよ。そういう学校だから,学生と教師の関係が非常に濃いんですね。たった1年間なんだけど。学生が卒業して30年後に,シンガポールで同窓会やったことがあるんですが,今でも鮮明に日本語学校のことを覚えていると言うんですよ。私は最初のころは,導入や練習の普通のクラス担当をしてたんですけど,後で聴解を全部任されたんですよ。それで結局,聴解って何が必要なんだ,何をしなきゃいけないんだと考えるようになったんです。当時あまり参考文献がなかったので,最終目標を大学の講義が聴けるようなことというふうに設定してみました。どんなことを習得すればいいのか,そのためにはどんな教材を使い,どのような練習をすればいいか,考えるようになりました。それで,録画のための機器をそろえてもらい毎週録画して,文字化し,教材作成をやったんです。結局,日本語を聞く場合,知らない言葉があるのは当たり前だから,大切なことは知らない言葉を前後の文脈などから推測したり,要旨を把握したりすることだと考え,そのための練習をするようになりました。いわゆる聴解のストラテジーですね。早稲田に来ても,聴解の授業をやることになり,その時の経験をもとにして,ピア・リスニングの方法を試みたりしました。私がはじめて海外に長期滞在し,日本語を教えたのは,1986年でした。中国の長春にある東北吉岡英幸,他/日本語をとおしてお互いに知り合うエッセイ&インタビュー/インタビュー5.中国の赴日留学生予備学校で教える
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