早稲田日本語教育実践研究 第1号
62/96

●58私の大学院の専攻は日本文学で,中世和歌の研究をしていたのですが,現実には日本語を教えることやその準備に忙しくて,研究からはだんだん遠ざかっていく感じでした。文学研究科に入学したときから,海外技術協力事業団で教え始めて,1968年からは,早稲田大学の国際部でも。朝,TICへ技術研修生を教えに行って,午後大学院の授業に出て,夜またTICに行ったり,曜日によったら,朝,早稲田で教えて,夜TICに行くというような生活を送っていました。そうすると,もう専門の勉強なんかできないんですよ。気が向かないんですね。教えてること自体が,だんだん面白くなってきたということもありますね。それで,ともかく修士論文を出して修了だけはしたんです。そのころは,もう自分は日本語教育の道に進もうと気持ちは固めていました。1971年から事業団の教師養成コースにかなりの時間をとられるようになっていましたし,1973年からは早稲田の語研でも教え始めました。そのとき学籍はもうなかったので,肩書は講座講師でした。当時日本語教育の専任のポストは非常に限られており,多くの先生は食べていけないので,いくつかの学校を掛け持ちしていました。私自身,将来のあてはまったくなかったのですが,不思議に不安はあまり感じなかったですね。教えることが楽しかったということもあったんだろうと思います。実は大学院にいるとき一年間だけ,中学に国語を教えに行ってたんです。1968年に,桐蔭学園という横浜にある学校なんですが。元々漠然とだけど,大学に入ったときは国語の先生になってもいいなという気持ちがあり,たまたま大学院の同じゼミの人から紹介されたものだから。中学生の古典の授業を担当したんです。時々時間を取って「『から』と『ので』がどう違うかわかる?」とか,「『私が吉岡です』と『私は吉岡です』の違いは?」なんてことをやっていました。中学生がきょとんとしてたけど,「日本語って考えるとこういう面白さがあるんだよ」というようなことを得意になってやってました。古典とは全然関係ないのにね。TICの昼間のコースが増えてきたこともあり,結局1年でやめました。日本語教育に専念することにしたんです。国語はまたそれなりに違う面白さがあったんですよね。中学生たちは本当に素直で熱心で,楽しかったです。1974年に,東京外国語大学付属日本語学校の専任講師になりました。木村先生の紹介,というより推薦していただいたのだろうと思います。この学校は,1年間で大学入学に必要な日本語や基礎科目を教えることを目的とした学校なんですね。たぶん世界で最も恵まれた日本語教育機関だと思います。60人の定員で,全寮制で,体育館や校舎や運動場なんか全部完備しているんです。しかも17人の専任教官がいる。食堂のコックさんや,マイクロバスを運転する人までいるんですよ,この人たちは文部技官っていうんですけどね。非常に恵まれた環境ですよね。教師もプロの集まりという感じで,3学期制をとっているんだけども,各学期ごとに中間試験や期末試験があって,読解とか聴解とか文法などの試験の問題案を先生たちが分担して作成し,それを日本語教師全員に回覧してチェックする。作成者のところに返ってきたときには書き込みで真っ赤になってるわけですよ。新人にとってはすごく鍛えられる。寮があるため,教育だけでなく生活指導も教師の管轄で,いつも会議や打ち合わせをやっていましたね。早稲田日本語教育実践研究 第1号/2013/50-643.日本語教師を生業とする気持ちを固める4.留学生の予備教育としての日本語教育に携わる

元のページ  ../index.html#62

このブックを見る