●57磨かれますよ。どこかでそういう時期があってもいいかなと,勉強になるだろうなという気がします。何かを説明しようとすると,別の意味の似たことばと誤解されると困るので,そのことばとどこが違うかというようなことまで考えなければいけない。自分の勉強になりましたね。一般的に言えば,理解には媒介語を使用しても,練習には日本語だけのほうがいいかなと思っています。国際部にいるときに結果的に学生の評判がよかったということなんだけど,後から考えると,それは,授業だけのことではなかったと思います。学生たちと歳が近かったんですよ。それに,私は本当に授業を楽しんでいたんですよ。早稲田で教えられるという喜びがあったんです。技術研修生はそれぞれの分野の専門家で,おとなと接するおもしろさ,魅力のようなものがありました。でも,母校で,若い学生といっしょに勉強するというのは別の喜びでした。教室に行くのが楽しかったんです。東京六大学野球の早慶戦があると,一週間くらい前から校歌の歌詞を配って,その意味を教えるわけですよ,「難しいけど,こういう意味だから」と説明して。で,テープを流して「ちょっと歌ってみようか」と。そして,土曜日の早慶戦に「行く?」っていうと全員が来るわけですよ。一緒に神宮球場に行ってみんなで校歌を歌い,ほかの学生と一緒になって応援する。そういうようなことをやってたんですよ。そういうこともたぶん学生との関係がうまくいっていた原因かなと思うんですね。教えることを自分がほんとに楽しんでいたということが,学生にも伝わったのではないかと思います。今でも私は教室に行くことを楽しみにしていますけどね。教師が自分の天職だと思っています。2-5.日本語教師養成コースのコーディネーターを務める海外技術協力事業団は開発途上国に対する技術協力の実施を行う機関なのですが,かなり広い分野の事業を行っていたんです。海外の日本語教育の需要も高まっており,技術協力の一環として,日本語教育のためのコースを作りたいという話がありました。結局,日本語教師の養成を行うためのコースを作ることになり,1971年から日本語会話教師養成コースが実施されることになりました。現職の日本語教師か,帰国後教師となる人を対象とした,7〜9人のコースでした。海外の日本語教師が対象なのですが,事業団の性格から開発途上国が対象となっていました。ですから,東南アジアや中南米の先生に限られました。「日本語会話」というコース名になっていましたが,実際の研修内容には,4技能の習得もすべて含めました。研修期間は1年間で,科目は日本語の運用能力を高めるための日本語会話のほか,日本語学,日本事情,教授法としました。講師には,早稲田大学から木村宗男先生,森田良行先生,慶応大学から斉藤修一先生,長谷川恒雄先生,国立国語研究所から水谷修先生などにお願いしました。私も日本語会話の授業を担当しましたが,それだけでなく,コース全体の授業計画やカリキュラム,講師への依頼や連絡,見学や研修旅行などの手配など,実施に必要なことをすべてやりました。事業団には日本語教育の専門家はいないので,私が担当職員と連絡をとりながら,コースのコーディネーター役をやりました。もっとも,コースの代表者は私では務まらないので,木村先生にお願いしていましたが。おもしろかったですね。予算的なことはあまり窮屈なことは言われなかったので,TICでの授業だけでなく,見学,合宿,各地の旅行なども計画しました。私もいっしょに旅行や合宿などに行きました。精神的に不安定になった研修員のために,TICの部屋に一晩つきそったこともありました。“寝食をともにする”ということばがありますが,そんな感じで接していましたね。国際交流基金が1972年に創立されていたため,文化的な事業はそちらで行うということになり,このコースは3年間で終了しました。教師養成のコース運営に関わるあらゆることが経験できたということは貴重な経験でした。吉岡英幸,他/日本語をとおしてお互いに知り合うエッセイ&インタビュー/インタビュー
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