「1,2」とか点数を数えていると,自分たちもまねをして「1,2」と,いっしょに得点を数え始めた。●54葉を教えてもらって,教材を作ったんです。「危ない!」っていう言葉とか,「発破をかける」とか,「坑道」とか,「落盤」とか,大切な言葉ですよね。そういう語彙や場面を入れて,教えた記憶があるんです。決まった教科書や事前に決めた授業計画があったとしても,基本的には,学習者に合わせて,学習内容を考えるということですね。本来はコースごとに教材を作らないといけないんでしょうけど,現実にはいろいろ大変なので,可能な範囲で対応するということになります。もう一つ,忘れられないコースがあります。竹細工コースというのがあったんですよ。このコースは,タイやビルマやインドネシアなどから来た6人ぐらいのクラスでした。研修員たちは九州などへ行って,竹でかごなどの工芸品を作るという研修だったんですね。朝10時にTICの自室から教室へ来るでしょう。「おはようございます。さあ,始めましょう」とかいって授業を始めるわけですよ。「私」とか「あなた」とか,初級の最初の課の「紹介」なんですが,目がとろんとしてるんですよ,みんな。目が死んでるんです。こんなに目が死んでいる人を,私は初めて見たと思いました。みんながそうなんですよ。午前中終わって,午後の担当の先生に「どうだった?」って聞いたら,「全然覚えてくれない」。三日たってもね,「私」と「あなた」の言葉の意味も分からない。それで,背景を知りたいと思って,担当職員に聞いたんです。それで分かったことは,研修員たちの生活は,自国では毎日朝起きたら,筵(むしろ)の上に座って,日がな一日,竹を編んでいるというんですね。机の前に座って,教室で勉強するというような経験はほとんどないんじゃないかなっていうんですよ。考えたらそのとき彼らは,大変なカルチャーショックを受けていたわけですよね。近代的なビルの部屋に寝起きし,ほかの国の人と教室で机の前にすわり,外国語を学べと言われても,頭に入るわけがないだろうと思いましたね。私は何となくコースの責任者のような立場だったから5),悩み,いろいろ考えて,このまま決まったとおりのカリキュラムで授業をやってもだめだと思いましたね。TICに体育館があったんですね。で,朝教室に行って,「ピンポン」って仕草で示したらうなずくから,体育館に行って,いっしょにピンポンをやり始めたんです。それで,「しめた!」と思って,ピンポンをやりながら,カウントすると,いっしょにやってくれる。勝つと笑う。目がいきいきしてきた。それで,「私5」とか,「あなた6」とか得点を数えると,うなずき,自分からも同じように言い始めた。「私」と「あなた」や数が言えるようになったんですね。それから,少しずつ単語も覚え始めました。そのあと,毎日ピンポンというわけにもいかないので,外に連れ出すことにしたんです。一緒に駅に行って「切符,いくら?」「20円」,とかって言いながら,20円出して,切符を買う。「デパートへ行きましょう,買い物をしましょう」と言い,デパートの中を歩きながら事物の名前を教えていくんですね。ついでに,必要なものの買い物をさせたりする。カリキュラムを切り替えちゃったんですね。そうすると,だんだん言葉が入り始めたんです。それで,10日くらいたって,何とか目が,死んだ目じゃなくなって,それでやっと決められた教室で,研修員の様子を見ながら授業をやるようになりました。そのときは,私もすごく必死でした。コミュニケーションをとることのできない環境で,無理に授業をしても何も生まれないと思いましたね。あの経験は今でも忘れられません。こちらから一方的に押しつけて教えることの理不尽さというようなことですね。そのときの研修員の目や顔の表情を思い出すと,我々日本語教師もうっかりすると非人間的なことをやってしまう可能性があるということ,そういうことを心しなければいけないと思います。教師は,学習者を常に見て,今どういう状況にあるかとか,何を求めているかということを把握することが,いかに大事かということで早稲田日本語教育実践研究 第1号/2013/50-64
元のページ ../index.html#58