早稲田日本語教育実践研究 第1号
56/96

を1本,続いて2本出す。で,3本,4本までくると学生がびっくりするわけですよ。ポケットか●52専門分野があるんだな,日本語教師になるのも,いろんな勉強をしなければならず大変だな,というようなことを思いましたね。1-3.教室を活性化できるような授業のあり方―木村先生の影響―最初に見た日本語の授業が,木村先生の授業だったというのは,幸運だったと思うんですよ。後々まで,その影響を受けましたしね。感心したのは,木村先生の授業には随所に工夫があったんですね。今でも覚えているのは,助数詞を教えるところで,1本,2本というような数え方を導入しておいて,学生たちに,じゃ,数えてごらん,と言って,先生が,上着の内ポケットから万年筆ら次々に出てくる,何本あるのだろうと。事前にポケットに12本ぐらい用意してあるんですね。10本を超えると,学生から歓声があがり拍手が出る。これは楽しいですよ,見ていて。その授業のすごさというようなものは当時の私にはわからない。学生といっしょになってげらげら笑って見ていました。だから日本語を教えるというのは,そのようにして教えるものだというふうに思っていました。そういう意味で影響を受けたんだろうと思うんですよ。教室を活性化できるような授業のあり方ですね。楽しい授業になるように工夫をすることが大切だということは,私が教えるようになって,ずーっと心がけてきたことです。2-1.教師は前面に出る必要がない正式に私が日本語を教え始めたのは,大学院に入った年,1967年からです。大学院に入学したとき,仕事というか,アルバイトを探していたんですね。そのとき,語研の専任の先生をされていた大島(正二)先生から紹介されたのが,海外技術協力事業団,現在の国際協力機構・JICAですね,そこの日本語教師でした。大島先生は東大の言語学の三根谷(徹)先生のお弟子さんで,中国学を専門にしていた方なんですね。後に北海道大学に移られました。三根谷先生が,海外技術協力事業団の日本語教育の顧問のようなことをやっていらした関係で,大島先生も一時期そこで日本語を教えていらっしゃった。それで話があったんです。事業団は外務省の外郭団体で,開発途上国から技術研修生を招いて,技術研修を行っていたんですね。で,「TICで日本語教育をやっているので,教えないか」というふうに言われたわけですよ。TICというのは,市ヶ谷にあったTOKYO INTERNATIONAL CENTERのことで,そのビルに研修員の宿舎や教室などがあったんですね。私はアルバイトを探していたときだったし,面白そうだったので,「お願いします」とやらせてもらうことにした。それが,実際に日本語を教えるようになったきっかけでした。ですから,私は技術研修員の日本語教育からスタートしたわけです。事業団の日本語コースは二種類あったんです。一つは昼間の集中コースで,本来技術研修は英語の通訳がつくのだけれど,通訳がつかないコースがあり,本研修の前2か月とか3か月,日本語教育を集中的に行ってから研修に出るコースです。もう一つは夜のコースで,研修のためではなくて,せっかく日本に来たのだから日本語の会話ぐらい覚えたいという人のためのコースです。まず最初に教えたのは,夜のコースです。(海外技術協力事業団の教材を出してくる)これが夜のコースのテキストの『NIHON-GO KAIWA』で,3巻ありました。三根谷先生や大島先生がお作りになった早稲田日本語教育実践研究 第1号/2013/50-642.日本語を教え始める

元のページ  ../index.html#56

このブックを見る