早稲田日本語教育実践研究 第1号
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ん3年生のころかな,1965年ごろだと思うんですけどね。学内でアルバイトを探しているという●51吉岡英幸,他/日本語をとおしてお互いに知り合うエッセイ&インタビュー/インタビュー1.日本語教育との出会い1-1.日本語教育をやるとは思ってなかった私が学部の2年,もしくは3年のときに語研(語学教育研究所)に出入りし始めたんです。たぶことを同級生に聞いて,行ったところが語研だったんです。7号館の5階にあったんですが,訪ねていくと,「じゃ,こういう仕事をしてくれ」って言われてした仕事が,教材のコピー2)なんですね。当時初級の教科書はできていたと思うんですが3),中級の教科書はなくて,先生たちがそのつど手書きで作成されていたんです。「用意したものを,箱に入れておくから,時間のいいときに来て,それをコピーして,穴をあけ,ファイルをして」と言われて。で,私は空いた時間に行って,そこでコピーをしていたんです。時給100円くらいだったと思います。最初は不思議なところだと思いましたね。普通に日本語を話す留学生はよく来るし。私はそれまで外国人と身近に接したことがなかったものですから。語研というのは,英語,フランス語,スペイン語,朝鮮語,中国語などの外国語を教えるところで,その中に,留学生に日本語を教える日本語教育部門が設置されていたんですね。私がコピーをしていたものが日本語教材だったわけです。それが私と日本語教育との最初の出会いでした。初めはアルバイト生として,仕事があるときだけ行っていたんですが,そのうち暇があるといつも顔を出すようになりました。先生たちにはずいぶんお世話になりました。特に,木村宗男先生にはその後もずーっとお世話になったんですけどね,同じ広島出身っていうこともあって。よく大隈会館へ食事に連れて行ってもらいましたし,進路などに関してもいろいろ相談に乗ってもらったりしました。で,そのうち留学生とも顔見知りになって,早稲田祭で留学生が日本語劇をやるっていうと,練習につきあったり,本番でプロンプターをやったりとかね。時々,木村先生の授業を覗いたりするようになったんですよ。でも,まだそのころは,自分が日本語教育をやろうなどとは思っていませんでした。漠然とですが,頭には国語教師のイメージがありましたから。1-2.日本語教育講習会をのぞいて専門分野のあることを知る語研に出入りし始めたとき,講習会の手伝いを頼まれたんです。この講習会は,1964年から毎年開かれていたもので,現役の日本語教師やこれから教師を目指そうとする若い人たちが受講していましたね。当時,東京日本語学校以外は,日本語教育の講習会はあまり行われていなかったはずです。3,40人出席者があったように思います。日本語の専任の先生が,それぞれご自分の研究テーマでお話しされていました。その講義内容を載せたものが,『講座日本語教育』です4)。これは,学会誌以外日本語教育の専門誌がほとんどなかった時代に,貴重な役割を果たした雑誌でしたね。私は講習会の開始時間の前に,会場の入り口に机を出し,受付を作りそこに座っていたんです。仕事は希望者に既刊の『講座日本語教育』を売ることです。開始時間がすぎると,受付は必要なくなるので,会場の隅っこのほうに座って話を聞いていました。もぐりですね,修了証はもらえませんでしたが。木村先生の教授法や,永保(澄雄)先生の略画の描き方や視覚教材を使った指導法の講義,森田(良行)先生の文法の講義などが印象に残っています。もっとも,このころはまだ日本語教育を目指そうとしていたわけではないので,気楽に聞いていました。日本語教育にもいろいろな

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