(interaction)によるものであるならば,授業におけるやりとりが何を目的に行なわれているのかは2)「話す権利」が保障された場の二つをあげる。学部留学生たちにとって日本語の教室は,専門の●12人という疑似性をクラスメイトに与えるのである。Morita(2004)は,カナダの大学院に留学する日本人女性に対するインタビュー調査の結果から,留学生たちがクラスへの参加を交渉していく過程を捉え,話すことによってクラスの中で,自身の能力の低さが露呈してしまうという葛藤に留学生たちが直面していることを指摘する。留学生たちはクラスによって異なる参加形態をとっており,クラスでのアイデンティティは,参加形態を変えることで変容していくという。留学生の教室におけるアイデンティティが,クラスでのやりとり重要な問題となるはずである。三代(2011)は,Nortonの議論を踏まえ,学部留学生に対するライフストーリーインタビューから,学部留学生にとっての日本語教室の意味を考える際の論点として,1)日本語を学習する場,授業では脅かされがちな「話す権利」が保障された場でもあるという。一方,日本語教室において留学生の「話す権利」が保障されているのは,日本人が教室に存在しないことが条件になっている。そのことから,三代は,日本人をはじめとした多様な他者との関係性を言葉の学びとしてとらえる言語学習観を教室において共構築していく必要性を主張する。この授業の留学生たちもまた,日本語を学習できる場として授業を評価している。また,留学生の一部からは,日本語の授業では気持ちを楽にして話すことができるという意見も聞かれた。このことからは,留学生にとってこの授業が,「話す権利」が保障された場として機能していたと考えることもできる。しかし同時に,留学生たちは,クラスメイトに対し外国人であることを否定的に評価しているのである。つまり,ここで問題としなければならないのは,留学生のみが参加しているこの授業において,練習の場としての位置づけが期待されることで,既にクラスメイトに,日本人ではないという疑似性が与えられる構造が準備されていることであり,教師がその期待に応えることによってその疑似性が強化されていることである。ここでいう疑似性とは,教室の外こそが本物であり教室の中は疑似世界であるという意味のものではない。それは,教室でのやりとりが,「その人である」必然性のないものとなることで,日本人と話すための練習として成立していることであり,その中でクラスメイトが単なる練習相手として位置づけられていることである。その疑似性を払拭するためには,教師が留学生の期待に反する形で,練習の場としての位置づけから教室をずらしていくことが必要であり,授業の中で学生に働きかけていくことが必要になると考えられるのである。分析から見えてきたことは,私が感じた留学生たちの無関心さが,授業の位置づけを背景に,教科書や教材の理解を目的とした疑似的なやりとりによって生み出されたものであったことである。ここで仮に,この授業に参加した留学生が持つ,授業への期待を「ニーズ」と呼ぶのであれば,教師である私はそのニーズに応え,日本語の練習を実施する役割に徹するべきなのだろうか5)。それはこの構造をさらに強化させ,「外国人の○○さん」という疑似的な意味を与えられた関係性を生み出し続けることに自らが加担していることを意味するのではないか。留学生たちは,日本語を練習するために日本語授業にやってくる。教室は外での使用を前提とし日本語を練習する場であっ早稲田日本語教育実践研究 第1号/2013/1-156.結論
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