●11しなければならないと考えていた。それでも,少なくとも私は授業に留学生が話し合う活動を取り入れ,留学生の興味や留学生同士のやりとりを大切にしているつもりでいた。しかし,ジムは,学生が教科書の内容を理解したかどうかだけを確認する「文字通りのような読解」や,教科書を「そのまま抜き出す」ようなテストを変更して,クラスの中でもっとお互いのことを知るための活動をしてほしかったという。ジム: まずは,(略)***(※テキストの名前)のテストを変更して,もっと,なんか,インタラクティブ↑,発表とか作文とか,自分の性格と,あの関心のことを表すための,あのー。(牛窪:活動↑)そう,活動をくれたら,その方がいいと思います。ジムはインタビューの他の箇所では,来日当初に友達を作ったので,クラスに友達はいらないと感じたと話している。そのことから,ジムはそもそも,クラスの中でクラスメイトと知り合いになることを期待していなかったとも考えられ,ここでの発言は,そのようなジムの授業に対する期待と矛盾するものであるともいえる。しかし,授業やクラスメイトに対する留学生たちの評価は,個人の中に複数のものが並存し揺れているものでもあった。ジムはここで,授業をよりよくするための提案として,クラスメイトとの関係性をあげる。クラスメイトと意見をやりとりし,お互いのことを知りながら勉強することで,よりクラスの話題に興味が持てるようになるのではないかという。ジム: 文章のことは,まあ,今日の文章(※インタビュー当日に読んだ本文)は僕にとってそんなにおもしろくないけど,それは別として。(略)そう,お互いの意見を一緒にシェアーすれば(6秒ポーズ),そう,もっとおもしろくなる,だろうと思いますけど。やっぱり,僕は意見を持ってないね。私が授業の中で留学生たちにやりとりさせていたのは,お互いの意見をシェアーするためだったとはいえない。それは,テストのために,教科書や配布プリントの内容理解を考えてのことだった。ここで考えなければならないのは,授業において,そのようなやりとりが留学生たちの性格や関心と切り離され,単なる練習として捉えられていたことであり,それによって,授業におけるクラスメイトとの関係性に強い疑似性がもたらされていた可能性である。だからこそリーは,他のクラスメイトは関係ないとした上で,このクラスで多くのことを勉強できたといえたのではないか。チェは,クラスメイトに対して「その人である」ことと「外国人であること」の両方を肯定的に評価している。インタビューの分析からは,留学生たちが授業を練習の場として評価していることがわかった。そのような状況においてなされるやりとりの内容が,その人である必然性がない(ジムの言葉でいうなら,その人の性格や関心を表わすものではない),日本語の練習のためのやりとりであるならば,それは,日本語の「練習」のために,日本人ではない「外国人」のクラスメイトと話すという認識を強化することにつながるものであると考えられる。キムは,外国人とディスカッションしても意味がないといったが,それは,日本語の授業においては,その人と意見を交換するためではなく,正しい日本語の練習のためにディスカッションを行なうものであるという認識を前提としている。授業におけるやりとりの疑似性が,同じ学習者という連帯感ではなく,非日本牛窪隆太/留学生は日本語授業をどのように位置づけているか論 文
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