早稲田日本語教育実践研究 第1号
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●10日本語使用を現実とは異なると批判しているのである。授業において,練習の場としての疑似性に否定的評価が与えられているのと同様に,練習相手としてのクラスメイトに対し,非日本人としての疑似性が与えられ,否定的評価が与えられている。クラスメイトは外国人であり,知り合いになっても使えないネットワークだと述べたリーは,「私が勉強したことが多いから,その学期で。すごくうれしいと思います」と授業についての満足感を述べる。しかし教室ではいつも一列目に座っており,授業のときは練習のために日本語を使うので他のクラスメイトは関係ないという。リーは,授業報告などでもまじめな学生として報告されており,無遅刻無欠席で授業に参加し,毎日の小テストや宿題,課題の発表の準備などにもきちんと取り組む学生であった。リーにとってこの授業は,たくさん日本語の練習ができ,多くの学びを得ることができた場として高く評価されている。確かに,教室の意味を日本語の練習の場としてのみ理解するのであれば,授業の価値は,教師から提示される日本語を自分がどれだけ吸収できたかに集約されるものである。教室の外の関係性こそが本物であり,教室の中での関係性は疑似的な意味でしかない。しかし,その疑似的な場での練習としてのやりとりにおいてこそ,クラスメイトには,同じ学習者であるという連帯感を持つものでありながら,練習相手として「真似しちゃだめな日本語」を話す,外国人としての評価が与えられていると考えられるのである。では,実際の授業でのやりとりは留学生にとってどのように映っていたのか。ここではインタビューの中でジムが話した授業の感想から考えてみたい。私は,それぞれの学生に対してのインタビューの最後に,他に何かいいたいことがあるかと聞いていた。そこでジムは,この授業で知り合いを作るのは難しかったといった。ジム: あのー,授業の話題について,熱心が上がって,自分の興味,ごめんね,話題の興味も持つようになって,それからお互いの,授業が好きな知り合い,ごめんね,みんなは,クラスの話題について,興味を持つと,知り合いになるのはもっと楽だと思います。例えば,この授業については,先生も学生もみんな親切でいい人だけど,もしかしたら教科書の内容とか,なんか,話題がそんなに面白くないから,知り合いになるのはもうちょっと難しくなったかもしれません。牛窪:それは,***(※牛窪担当のクラス名)↑について↑4)ジム:うん,うん。ジムは,クラスの先生,学生もみんな親切でいい人だったといい遠慮しながら,この授業で扱っていた教科書や授業の話題に興味が持てなかったことにより,クラスメイトと知り合いになることは難しかったという。既に述べたとおり,授業は既定の教科書に沿って十数クラスが同じ学習スケジュールを横並びで実施するクラスであった。教科書は,文法・語彙学習を経て本文の読解を行ない,関連する内容を作文に書いてクラス内で発表するという流れで進められた。文法シート,語彙シート,読解シートなどの教材は十分なストックが準備されており,私もそれを使用して授業を進めていた。読解時にペアワークを取り入れたり,作文を書く前にクラス内で話し合いを実施したりと,日々の授業にできるだけ留学生の発話を引き出す工夫を取り入れているつもりであった。しかしその一方で,教材を教えなければならないという意識もあり,準備された教材はテストのためにもクラスの中で消化早稲田日本語教育実践研究 第1号/2013/1-15

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