●7した。Norton(2000)は,カナダの女性移民の英語学習者を対象としたインタビュー調査において,成人学習者が言語教室に対して,同じように練習の場としての位置づけを求める一方で,その中身については,それぞれが持つ個人的な経験から全員が異なる過程をイメージするとしている(p.136)。この授業に参加した留学生たちもまた,授業に練習の場としての位置づけを与えているが,日本語授業をどのように評価するかは,個々の留学生が持つ練習の場としての教室のイメージの具体的な中身によって変わるものであり,その評価は肯定的にも否定的にもなるものであったと考えられる。加えて,インタビューにおいて,授業に対する肯定的,否定的評価は,一人の留学生から同時に語られるものでもあった。例えば,ピーターはインターネットに書き込むときに授業で習った文法の形に自分の意見を入れて使っていると話し,文法や漢字は授業で習うことができると話した。その一方で,教室では普通の日本語が使えず練習にならないと授業を否定的に評価している。また,キムは学部のゼミやサークルなどでの日本人の友人との会話からだけでは,これ以上日本語は上達しないため,教科書や教師からのインプットが必要であるといった。その一方で,言語学習において最も重要なことは真似することであり,授業には教師以外にモデルとなる人がいないので練習にならないと話した。二人にとって,授業は,知識をインプットするために必要な「練習」の場であり,かつ,普通の日本語が使えず,教師以外のモデルが存在しないために「本当」の言語学習ができない場でもある。つまり,二人はこの授業を「練習」の言語学習ができる場としても,「本当」の言語学習ができない場としても評価している。このことから,授業に対する肯定的,否定的な評価は,個人の中でも一部矛盾するものとして,あいまいに並存するものであるといえるだろう。4-2.クラスメイトについてでは,このような授業の位置づけの中で,留学生たちはお互いをどのような存在であると認識していたのだろうか。クラスメイトについての発言から生成されたカテゴリーを以下に示す。クラスメイトについては,11のカテゴリーを生成し,これを表5にまとめた。ジムは,楽しい活動が一緒にできる知り合いがクラスにいれば,それほど親しくなくても十分だといった。留学生たちはクラスメイトに対して,クラスで日本語を練習する相手,単なるクラスの知り合いという認識を持っていた。これらのコードから「クラスで話す『知り合い』」というカテゴリーを作成し,『生活での位置づけ』とした。クラスメイトとの親しくなることについては,「必要」,「不要」といった信念に加え,クラスに友達が欲しいが,どう思われるかわからないなど「迷い」のカテゴリーが生成された。マイケルは,クラスに友達がいると外国語で話してしまい,日本語の勉強の邪魔になるので友達は要らないといった。一方,エレーヌは,クラスに友達がいるかどうかは日本語学習にとって重要であるが,このクラスでは,他の人にどう思われるかわからないので誘いにくいと話した。クラスメイトについて,親しくなることが日本語学習に効果をもたらすという内容のコードをまとめたのが,「学習効果の創出」である。例えば,チェは,クラスメイトと仲良くすることによって,日本語や日本語学習に対する興味をより深く持つことができるようになるといい,特に,日本に来たばかりの学生にとっては,限られた日本語力やトピックで話せるクラスの中で友達を作ることが大切であるといっ牛窪隆太/留学生は日本語授業をどのように位置づけているか論 文
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