早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●8110 「教室」の役割11 まとめ熊田道子/「自由読書」特集 教室中心主義からの解放/寄稿論文ここで「教室」について考えてみたい。「教える者」と「教えられる者」がおり「教えられる内容」があるといった,従来の三要素を前提としたものとは異なる形態へと授業が変容を遂げても,教室という「場」そのものはなくなるわけではない。そこで,次に「自由読書」を「教室で」行うことの意義を考えてみたい。10-1  アンケート10「教室で読むことと他の場所で読むことは違いますか」(自由記述及びインタビュー)①「教室には先生やボランティアがいるので,困ったときには手伝ってもらえる(わからないときには聞ける)」(16) ②「教室には友だちがいる」(2) ③「一人は淋しい」(1) ④「読める本がある」(5)  ⑤「読むことに集中できる」(6) ⑥「他のことができないから気が散らない」(2) ⑦「教室以外では日本語で読んでいない。(インターネットで日本語を読むことがありますけど,インターネットでは翻訳ができるから。/クラスでは,本と自分だけだからよく読めます。)」(2)10-2 考察これらの意見は三つに大別できる。一つめは他者の存在による安心感である。①では日本語をよく知っていて,困ったときに助けてもらえる人がいることを挙げている。アンケート9では,参加者はあまり質問しない理由として,「自分で考える」「自分で答えを見つけたい」といった回答が主であったことから考えると,できる限り自分一人の力で問題を乗り越えようとしているが,自分で努力しても自力では乗り越えられない問題が生じたときに,サポートを受けられる態勢の中で読むことに安心感を感じ,積極的に読みにかかわれるのではないかと思われる。②③は,助けてくれる相手であると同時に,空間を共有している他者の存在の与える安心感である。二つめは④読める本の存在である。当該クラスは初級から初中級の参加者を対象としているため,参加者自身が自分の力で読めるものを探すことは困難を伴う。そのため,環境として,読みたいものが常時手に取れることは,教室活動の重要な要素である。三つめは強制力である。⑤⑥⑦から考えられることは,無数の可能性がある時間の使い方のうちで,「日本語を読む」という行為を選択することは,参加者にとって難しいということである。特に参加者自身が読みに対する苦手意識を持っている場合,「日本語を読まなければならない」というある程度強制力のある時空間の必要性を参加者は求めている。つまり,この授業の時間は,読むためだけの時間・空間であることが,参加者にとって意味を持っている。「自由読書」においては,「読解クラス活動の三要素」のうち「教える者」「教えられる者」は「共にいる他者(日本語をよく知っているサポーター・仲間)」へと,「教えられる内容」は「選ぶ内容」へと変容する。しかし教室は,本来有している「読みを保障する場」としての存在意義を保ち続けるのである。以上,「読む行為は個人のものである」という読解授業観に基づく「自由読書」の活動によって,

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