早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●684.「日本語の教室」という学習コミュニティにおける学び早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号/2012/57-70が深い」「読みなれているように見える」とまで言われている。最後にはグループの代表発表者に選ばれる。教室という場にいる学習者一人ひとりの「読む力」の発現は,固定的,安定的なものではない。これは,「ことばの力」が状況に依存したものであり,関係性や自律性,そしてそれによって変化する参加する/しないといった態度と大きくかかわっていることを示唆している。構成員一人ひとりがこのようにして参加している教室というコミュニティは,どのような場で,そこではどのような日本語の学びが生起しているのだろうか。本稿のテーマである「あえて教室ですべき日本語の学びとは何か」という問いに戻ろう。教室という場におけるクラスメイトは,たまたまその授業を履修することになったためにクラスの仲間なのであって,始めはコミュニティは成立していない。しかし,学習者たちは,自らが参加することによって学習コミュニティを生成し,同時にそのコミュニティにおいて学びを得ている。教室で他者と読むということは,テキストをめぐってことばを使い自己を表現したり,他者を理解したりするという実践であり,同時に,その実践を通して,他者と関係性を築くという体験でもある。つまり,教室でことばを学ぶということは,他者との関わりの中で行われる社会的な実践なのである。ことばを学ぶということは,効率よくパーツを頭に入れ,それを組み立てるという行為ではなく,自分の声を他者に伝え,他者の声を聞き,そのやりとりの中で互いにとっての妥当な意味を生成する過程であり,それは取りも直さず相手との関係性をつくっていく行為である。ことばの教室における関係性の生成と学びへの参加の観点は重要でありながら,今までこうした視点でことばの教室を十分検討してこなかったのではないだろうか。Norton (2000:132)は,言語学習とアイデンティティとの関係を論じる中で,「第二言語の学習とは,学習者が熱心にがんばれば獲得できるスキルというわけではなく,むしろ,今までSLAの分野で看過してきた学習者のアイデンティティにかかわる複雑な社会的実践である」と述べる。ことばの教室というコミュニティにおいても,その実践はアイデンティティに関わる社会的な営みであろう。ボブの事例に見たように,ボブの「読む力」の発現は状況によって変化し,教室でのボブの学びも状況の中に埋め込まれていた。ボニーやイェニ,キティの学びもコミュニティにおける対話にあった。「教室で読む」という授業はさまざまな形で実現されうるが,テキストを読み,考え,他者の話を聞き,さらに考え,そして自分の考えを表現しようとする学習者自身の実践によってこそ,読むことを通して学ぶことができるのではないか。教室に座った学習者たちが,テキストの中のことばを覚え,内容理解に関する設問に答えていく活動の中では,このような学びは生まれないであろう。「教室中心主義からの解放」を謳う中で,教室に残るものは何か。それは,複数の学習者が同じ時間帯に日本語を学ぶという目的のもとにひとつの教室に集まって学ぶことによる社会性ではないか。ことばの教室だからといって,言語の知識を獲得するだけではない。対象(本稿で取りあげた授業ではテキスト)の世界を理解し味わい,他者のことを理解し,自己を理解すること,そのためにことばを使う実践を体験し振り返ること―これらを実現する場としての「日本語の教室」なのではないか。学び手たちが教室という場に参加し,自ら場を作り,他者との意味交渉としての対話を通して学びを創造する場としてこそ,教室はあるべきではないだろうか。

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