早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●63第2に,他者と読むプロセスは,他者の声を自分の中に取り込むプロセスでもあった。キティは,第3に,他者との対話を通してテキストそのものの読みも深めている。他者とのズレから再びテ3.教室というコミュニティ―関係性と参加の観点から舘岡洋子/テキストを媒介とした学習コミュニティの生成特集 教室中心主義からの解放/寄稿論文(**)今現在では,民主社会といっても言い過ぎない。誰でも思想の自由権があることで,他の人に私と同じ考え方をさせない,それに,違い考え方を持っている人々と意見交換するほど,もっと楽しくと思わないか。このようにして,キティは最初に「世界の住民としてみんな同じ」と考えていたが,他者との異なりから問い直しが起き,自分自身の考えを明確にしていっている。2.4.学習者たちが学んだもの協働で読むことによって,学習者たちは何を学んだのだろうか。第1に,他者と自らの捉え方のズレから,自らの固有性に気づくことになった。他者との対話によって,イェニは自分のアイデンティティの捉え方が必ずしもほかの人に当てはまるものではないことに気がついた。キティは自分は複数の国に住んでも自分は自分である,自分にとっての国は単なるシールではない,という意識を明確にした。つまり,対話を通してテキストのテーマと自分との関係がだんだん明確になり,そのプロセスでの他者理解を通して,自らを理解している。テキストの中の,「恐竜」と「小型哺乳類」というふたつの生き物のメタファーや,テキストの中の「老婆」や「F君」のエピソードを取り込み,自らが感じる現代人の「国家意識」を書くに至った。また,他者からのコメントを取り込み,自分の作文を書き直している。ここには,「なかば他者のものであることばを自分のものとする(バフチン1996:67)」「収奪」5)の内的な過程が表れているといえよう。「言語とは話者の志向が容易にかつ自由に獲得しうる中性的な媒体」ではなく,「困難かつ複雑」な過程を通して,「他者から獲得して,自己のものとしなければならないもの(バフチン 同上)」なのである。キストに戻ることになる。教室でこのように対話をしながらテキストを理解することについて,ボニーは,「はじめは顔がぼんやり見えるようだったけど,だんだんと鼻や目などもはっきり見えるようになってきた感じ。はじめは骨だけだったのが,肉がついてきた感じ」と述べている。ここでは,テキストを読み理解するということは,ことばの一つひとつを理解し,それを積み上げて全体が理解できるのではなく,ぼんやりしたテキストの世界が対話を通してだんだん形を現していくという経験だととらえられていることがわかる。この経験は学習者に読み方の変更を迫る6)。協働で読むことを支えるコミュニティの中で,参加者間の関係性と参加とはどのような関わりがあるのだろうか。第2節にあげたような気づきや学びは,活動の場への参加があって初めて成り立つものであろう。そこで,第3節では,教室という学習コミュニティにおいて,何がコミュニティへの参加を促すのかを,コミュニティにうまく参加できなかった事例(舘岡2008)を再分析し考察する7)。

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