早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●61舘岡洋子/テキストを媒介とした学習コミュニティの生成特集 教室中心主義からの解放/寄稿論文のようにとらえるのか,さらに,自分にとって国とは何かを話し合った。あるグループでは,カナダ系アメリカ人のボニー3)とドイツ人のイェニが,国とアイデンティティの関係について議論していた。ボニーとのやりとりの中で,イェニが考える「アイデンティティ」とボニーが考える「アイデンティティ」が異なることに,イェニが気づき,それを話題にした。それは,ボニーに対してイェニが反論したのではなく,「考え方の違いがなぜ起こるのか」という点を話し合うことになった。英語の「identity」とドイツ語の「Identität」がもつ意味が多少異なるのではないかという議論にも展開した。話し合いの中で,ボニーは自身の父の文化,母の文化を説明し,アメリカ人である自分とカナダ人である自分を感じることがあると説明した。それに対して,イェニは,「私はアイデンティティはひとつのものだと考えていたが,ボニーさんと話しているうちにボニーさんがそう思っていないことがわかった。ボニーさんにとっては,一人の人の中に複数のアイデンティティがある。それは私にとって対立的な意見ではなく,私はボニーさんのような考え方もできると思った。」と話した。おそらくイェニにとっては,ボニーと話して初めて「自分自身がアイデンティティというものをひとつのものと考えている」ということに気づいたのであろう。ボニーを介して,イェニは今まで考えていたアイデンティティということばの自分にとっての意味を理解したのであり,それと同時に,異なる他者の意味を受け入れることによって,アイデンティティということばの意味を拡張したのである。このプロセスは,アイデンティティということばについての理解と同時に,その人にとっての国というものが意味することへの理解へとつながる。イェニにとって当然である国への理解,アイデンティティへの理解が,他者との異なりの中で可視化されたのである。その後,イェニは再び国について考え,テキストを読み直し,テキストの筆者が述べる国民国家について考える。そして,「国は故郷。自分のアイデンティティは国ではなく,ヨーロッパにある」と考えるに至る。他者との対話により,互いの世界を重ね合わせることからズレを発見し,ズレの意味を探ることが,テキスト理解,他者理解,ひいては自己理解へとつながる。ことばの意味は対話の中で生まれる。イェニには,明確な理解がまずあって,それに基づいてボニーと対話をしたというよりも,対話の中でイェニは自分にとって自明であったことの固有性にあらためて気がついたといえるであろう。2.3.エピソード2―キティの思考の更新先に検討した同じ授業で,別のグループのメンバーだった学習者キティについて検討する。キティは台湾人である。テキストを読んだ1日目の振り返りシート4)には,「台湾人としてずっとほかの国の人に『中国』という国のシールを貼っているけど,自分は『さまよえる老婆』と同じ,どんなシールを貼っても,私は私です。世界はもはや国民国家の型ではなく,F君や老婆のような人の時代になる。悲しいには感じられない。ぎゃくに世界の住民として,みんな同じという気がする。」と書いている。この時点では,私は私である,それはテキストの中の「老婆」と同じである,と主張している。しかし,2日目のクラス全体の話し合いの中で,「私は私である」と主張する者がクラスの主流でありながらも,その発言には,異なった意味が含まれていることに気づいた。国はシールみたいなもので,何人であるかは意味がないという主張からくる「私は私である」という発言なのである。例えば,先にあげたボニーは「国はただのラベルに過ぎない」と発言している。キティは,自分が何人でもかまわないのではなく,自分が台湾人であることにこだわっていることに気づく。「私は私だ。だから何人でもかまわない。」というクラスメイトたちと,「私は中国人に

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