●59舘岡洋子/テキストを媒介とした学習コミュニティの生成特集 教室中心主義からの解放/寄稿論文るとされる。テキスト理解は,更新されうる動的な過程であるということに賛同しつつも,一方,西林(2005)においては,自らの頭の中で文脈を利用したり,整合性を検証したりするなど,読みが個人に閉じられていると考える。参照すべき文脈は個人の頭の中だけにあるのではなく,社会にあるのであり,また整合性があるかどうかもテキストが読まれる背景によっては異なったものとなる可能性がある。つまり,自分以外の人の文脈を持ち込むことによって,多数の視点からの検討が行われることになり,テキストの理解がよりダイナミックなものとなる。他者の「つっこみ」によって,自らの「わかったつもり」は揺らぎ再考を迫られる。また,他者の「つっこみ」によって,自身が気づかなかったことに気づかされ,自らの固有性を発見する契機となりうる。だからこそ,複数の視点,複数の文脈が可視化される場が必要なのであり,教室こそはそのような場となりうるのではないかと考える。自分が自明視しているある理解というものは,そもそも自分の文脈から出たものである。それに気づかせてくれるのは,他者の存在である。また,自分で自分がどうとらえているのか明確化できないとき,それを明確にしてくれるのも,他者の存在である。教室では,ひとつのテキストをめぐって,自分の文脈,他者の文脈,あるいは日本語の文脈,自分の母語の文脈,ほかの学生の母語の文脈,いろいろな文脈を参照することになる。バフチンは,人はそれぞれ自らの視点から世界を見ており,他者のそれとは一致しないことを「視覚の余剰」と呼んでいる。「わたしの外にあって向い合っている人物の全体をわたしが観察するばあいに,実際に体験されるわたしと彼の具体的な視野は一致しない。なぜなら,いかなる瞬間にも,そしてわたしが観察するこのもう一人の人物がどのような位置にあろうと,どれほど近くわたしのそばにいようと,わたしの外にあって向かい合うその位置からは彼自身が見ることのできない何ものかを,わたしはつねに見,知ることになるから。(略)わたしたちがお互いに見合うとき,わたしたちの瞳には二つの異なる世界が映っている(バフチン1999:145)。」したがって,それぞれが独自の視野をもっているかぎり,それぞれのことばの理解も完全なる一致に至ることはありえないことになる。したがって,自己の理解と他者の理解とのズレは永遠に続き,このような闘争のプロセスこそが対話であるとする。つまり,バフチンにおいて「理解」とは,あることばに対して与えられている(辞書などにあるような)特定の意味に至ることではなく,他者と互いに妥当な意味を模索する対話を行うこと,つまり,たえず交渉され,専有されていく1)ものである。教室で読むということは,教室における他者とテキストについて意味を模索する対話を行うことであり,そこからテキストとも対話をしていくこと,つまり,他者との対話とテキストとの対話という二重の対話をすることである。このことを後に具体的な事例からみていきたいと思う。上記にあげた3つの問題意識から,「教室で読む」という授業実践を考えると,必然的に,複数の他者がいる教室という場で他者と協働で読むということになる。では,テキストを他者と協働で読むことによって,読み手は何を学んでいるのだろうか。それを明らかにするには,他者との対話のあり様を学びの観点から検討しなければならない。これが第1の課題である。また,このような対話の実践の場としての教室は,コミュニティとしての重要な意味をもってくると思われる。では,
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