●58第2に,第二言語(外国語)で読むとはどのようなことか。本稿では読むという活動を取りあげ第3に,では教室で読むということはどのような行為であろうか。第1,第2にあげた点をふま早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号/2012/57-70がって,ことばを学ぶということは,リストのようになっていることばを知識として覚えて身につけるということではなく,人と人がことばによってつながることを意識的に体験することであると考える。そう考えると,教室とはどのような場になるだろうか。教室のメンバーであるクラスメイトや教師が互いに関係性をつくりながら,ことばの使用を意識的かつ安全に体験し,振り返る場となるのではないだろうか。このプロセスでは,他者を媒介として対象(たとえばテキスト)および自分自身を理解し,対象を媒介として他者および自分自身を理解するプロセスでもある。これは,教室という場をひとつの学習のコミュニティとしてとらえ,そのコミュニティの中でやりとりを通して学ぶということになる。そして,そのコミュニティは最初からあるのではなく,メンバーが互いにことばによって関係性をつくりながら生成していくのであり,教室という場で学ぶということはその生成プロセスへの参加の体験だということができるだろう。るが,読解と呼ばれる授業は,授業担当者が第二言語で読むということをどのようにとらえるか,その読解観によって変わってくる(舘岡2011)。本稿では,第二言語において読むという行為は,テキストを構成する各部分の意味を明確にし,それを積み上げるようにして,全体を解読していくのではなく,自分の中にテキストの世界をぼんやりとでも構築し,その世界を徐々に明確にし,更新し続けていくプロセスであり,それによって自分の世界を拡げることであると考える。えて考えれば,教室で読むということは,教室という学習コミュニティで参加者それぞれが構築したテキストの世界を互いに重ね合わせる行為であり,それを通してテキスト,他者,自分自身を理解する行為でもある。第3の「教室で読むこと」について,次にもう少し検討を加える。1.2.教室で読むということ―対話によるテキスト理解読解の授業において,読むこととテキストをめぐって行う対話との関係を考えてみよう。自分なりにもったはずのテキスト理解は,どれくらい明快なものであろうか。また,自分なりのテキスト理解にもとづいて行う他者との意見交換では,どれくらい互いの意見の異なりが明確になるであろうか。実際には,かならずしも「読む→理解する→対話する」というステップで進むのではなく,自分の理解というものは人と話しているうちに気がついたり,はっきりしてきたりすることが多いのではないだろうか。他者とのすり合わせの中で重なりと異なりを考えるようになるからこそ,自分の理解というものが浮き上がってくる。自分がぼんやりと考えていたことが他者とのやりとりを通して明確になったり,また,自分では自明であるとして気づかずにいた前提が他者との異なりの中で可視化されたりすることを私たちは経験している。認知心理学の観点から,西林(2005)はテキスト理解について,「読み手自身が,後から考えると不十分もしくは不適切な理解状態」であるにもかかわらず,本人が「わかった」と認識している安定的な認知状態を「わかったつもり」と呼んでいる。この「わかったつもり」の状態は,本人がもう「わかった」と思っているために,これ以上,読みの探索が進まない,という。しかし,読み手がもつ背景知識などさまざまな文脈を利用することにより,浅い「わかった」から,より深い「わかった」に至ることができるとする。また,読みにおいては「正解(正しい解釈)」があるのではなく,どれくらい「整合性」があるのかが重要であり,読み手の「わかったつもり」はより整合的な解釈のもとでたえず破棄され,より整合性の高い「わかった」に更新されていく動的なものであ
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