早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●188シンガポールのアイデンティティ早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号/2012/184-189深かった。ただ学生達がスピーチをするたびに発する「ナンドゥリ!」という言葉が気になった。本場のインドのタミール語地域では,ナンドゥリは,大きな恩義を受けた時に使うとても重い意味の言葉で,軽い感謝の意を表わす時には,英語の「サンキュー」を使うのだから,討論の合間に,乱用されるととても気になる。シンガポール生まれの彼等の世代では,タミール語の語感や使い方が大きく変化しているのが,私にもわかる唯一の言葉ナンドゥリに象徴されているようだ。授業中の生徒達は,元気にあふれ実に楽しそうだった。バスを乗りついで遠方から来る者も多いのだが。校長先生に,英語とタミール語という二言語政策は生徒達に負担ではないかと尋ねてみたところ,インド系にとって英語をマスターするのは簡単だから,二言語政策は問題ない。またタミール系以外の市民は,一般に英語とマレー語,そして自分の母語となるわけで,これも問題がないとはっきり言い切るのだ。タミール語センターでは,最後にインドから取り寄せたテキストや読物が保管されている図書室を見た。本棚には製本された本がずらりと並んでいるのだが,本の背表紙には図書分類のラベルが二つずつ貼りつけてあるので不思議に思って手にとってみると,紙質の悪いインドの本を二冊ずつまとめて補強し製本したものだった。タミール語の本は,インドからの寄附かと質問すると,センターの所長は,大きく首を振って「とんでもない。政府の厳しいチェックをパスした注文書を送って,本はインドから取りよせているんですよ。」と憤慨口調。二言語政策で多民族国家を形成しながら,且つ,各民族の祖国との癒着,また干渉を警戒し,シンガポール人としての自覚を持たせたいというシンガポールの姿勢をはからずも見たような気がした。シンガポールは,中国と正式な国交回復をしていないが経済的な関係が深い。私のシンガポール滞在中,首相の北京訪問があり,帰国した時のリー首相の演説。「中国は古い国。我々は新しい国。我々は中国からだけでなく,他の世界の国々から来た人々の国,シンガポールである。私達は中国人でない。シンガポール人だ。」とシンガポール人宣言をした。その後,ヴェトナム問題に関してインドに派遣した外交ミッションは,ダナバラン外相を中心としたインド系外交官達の構成であった。多民族による新興国家の国造りのパターンはいろいろある。シンガポールの場合,各民族の言語と,異民族間の共通語となるべき英語との二言語併用政策をとり,各民族のルーツを大切にしながら,民族を越えて,シンガポールという新しい国を造り上げていくという意識の中に国のアイデンティティを見出して生きていこうというのであろう。かつては華僑印僑などと云われ,世界中に一族のネットワ一クを広げ,一旦事あらば,国や土地,社会をも捨て去っていくと非難されることの多かった中国系,インド系の市民達。が,最近は,政府の国造り政策とも相まって,出かせぎでなく,シンガポールという国に定着して,多くの異なる文化の人々と一つの国を造りあげ発展させていこうというシンガポール人としての自覚が国民の間に高まってきているようだ。これは,南インド風菜食料理のレストランで,私が見た光景である。北インドから来たらしい旅行者が,何かと注文をつけ給仕を困らせていた。丁度,そこに居合わせた二人のインド系市民。給仕にいろいろアドバイスをして,北インドの紳土の意にそうようにした。カルカッタから来たとい

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