●186マンダリン・キャンペーン早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号/2012/184-189英語以外の他の三つの公用語は,シンガポールの主要民族を代表する言語として大まかに制定されたものである。しかし,各民族の言語背景は複雑である。例えば,中国系社会の場合,同じ漢字を使用していても,発音の全く違う12の方言を母語とする人々から構成され,インド系はタミ一ル語を中心にマラヤラム,テルグ,パンジャビ,ヒンディ,ベンガル語などを母語とする人々からなり,マレー系の市民は,ジャワニーズ,ブギス,ボヤニーズからなっている。中国人社会で最も多く使用されている方言は,福建語42.2%,潮州語22.3%,広東語17%と続き,公用語である標準中国語 (北京官話)人口の方は,わずかに3%弱にすぎないという。大体,二言語習得自体,大変なことなのに,シンガポールでは,公用語の一つであるマンダリンは,学校を出れば家庭や職場,地域社会では何の実用価値もなくなってしまう。そして実際に社会で使われないマンダリンは,忘れられていき,中国系市民は 英語と各自の母語である方言で生活することになる。同じ中国系市民の間でも,方言の違いで意志が通じないときは,英語かマレー語が使われる。英語と各自の方言を併用し続けると,そのうち,いつか英語は各民族間の共通語だけにとどまらず,中国系市民間の共通語にさえなってしまうのではないか。そうなったら中国民族としての共通のルーツ,伝統文化といった遺産をも失うことになるのではないか。現に,近年英語が重視されてきたため,英語の言語環境の中だけで育ってきた若い世代が多くなってきた。漢字を知らない彼らは,中国的感覚の環境で育ち,中国語で教育を受けた人々とは,感覚,思考,行動など多くの面で異なっている。そういった危機感から出てきたのが,「今後中国系市民は方言の使用を減らし 伝統文化の保持と統合の共通語としてマンダリンを使っていこう。」と,リー・クアンユー首相の演説により始まったマンダリン使用推進キャンペーンである。シンガポールに来て1か月目。私は,屋台の食物屋の店先のラジオで,感じのいいのびやかなリー首相のその演説を聞いた(1979年9月)。「マンダリンをマスターすれば,世界中の中国語を話す人々と交流できる。20年後には,四つの近代化を終えた中国が貿易の主要なパートナーとなり,マンダリンは世界の重要な言語となろう。世界の重要な言語,英語と中国語をマスターした中国系市民の未来は明るい。」と,マンダリン・キャンペーンは夢を語る。が,言語学習にとって,方言のみ使われるシンガポールの言語環境が大きな壁となっていた。キャンペーン開始の演説で,リー首相は,子供達の学習の負担を軽くするため,家庭内でもマンダリンを使用してほしいと述べ,中国系市民の父母達に,「英語とマンダリンか英語と方言か。」の選択を強くせまったのである。首相の演説以後,新聞の反響はすさまじく,街のあちこちにマンダリン・キャンペーンのポスターや垂幕が張られ,またラジオやテレビのマンダリン学習番組,学校,職場,地域社会でのマンダリン学習コースが盛んになり,マンダリンのテープも飛ぶように売れていた。外国人の目には華やかなキャンペーンと共にマンダリン学習は着実に推進されているように見えた。だが,問題は,そう簡単にはいかない。各民族の言語の選択は方言かマンダリンかを単純に問うてすむものではない。多民族国家シンガポールは,異民族間同士の結婚も多い。例えば,初期の中国系移住民は,移住先のマレー人との結婚が多く行われ,その結果名前は中国風で,母語はマレー
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