早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
175/222

●173鴻野豊子,他/活動型クラスにおける担当者と学習者のズレについてエッセイ&インタビュー/センター最前線考えの下にあり,そのような人と人の関係の中で生み出される「ことば」のみが,真のことばとしての価値を持つと考えられるからである。担当者と学習者,学習者と学習者も人と人であるという視点に立ち返れば,その間にズレがあるのは当然,もっと言えば,ズレがあってこそ活動型クラスが成り立つのだと言える。様々な面における見方・考え方のズレからクラスの参加者同士のやりとりが始まる。それは,発表や作文検討時の意見相違の次元に留まるものではなく,活動の成果や評価に対する判断や,クラスで今,何をどうすることが最善かという次元にも及ぶものである。そして,その答えは常に人と人(担当者と学習者,学習者と学習者,担当者と担当者)との間にある。この観点から言えば,担当者がズレを埋めるために,一方的に学習者を動かす画策をすることが誤りであると同時に,その逆の方法として,担当者が学習者のニーズに全面的に合わせようとするような態度も根本的に誤りであることがわかる。もし,全くズレが表面化せず,異様なほど円滑に授業が進み,ズレがない同意見の人間だけがクラスに存在するように見えるならば,それはむしろその環境や人間関係にどこか問題があると考えなければならず,注意が必要であろう。このような活動型クラスでは,面白いことに,担当者の思い通りではない学習者の中に,自由な発想や思いがけないオリジナリティが潜んでいて,一般的な優等生タイプではない学習者が脚光を浴びることがよくある。そこでは,担当者の言うことをよく聞き,学習事項をよく覚える学習者だけが優秀なのではなく,学習者を評価する別の物差しがあるのだという気づきが起こる。これにより,担当者には,これまでよしとされてきたいわゆる「優等生観」からの脱却と,自身の評価に対する発想の転換が求められる。さらに担当者は,次第にその先にある問い―ズレを持つ人と人との関係において,人が人を評価することの困難と是非にも答えを出していかなければならないだろう。最後に,活動型クラスがズレを内包する人と人の関係の場であるとする立場から,活動型クラスには,「担当者が学習者の意見を尊重する」という水準の「学習者主体」を超えた,「両者主体」「相互主体」の在り方が不可欠であることを述べたい。もちろん,活動型クラスは学習者主体のクラスでなければならないが,学習者主体とは,担当者から学習者に与えられるものではなく,また担当者側の主体放棄を意味するものでもない。それは,本来の人と人の在り方をシンプルに体現した姿にすぎないのである。よって,学習者が真の意味でコミュニケーション主体になり得るためには,彼らと向き合う対象としての担当者が,それにもまして確固たるコミュニケーション主体でなければならないと言えよう。担当者には,学習者の話を十分に聞き,受け止めるだけでなく,一人の人間として自身の考えや言いたいことも率直に言える場と関係を作り上げることや,学習者同様に自らを振り返り,その考えを問い直して柔軟に人と向き合うことが求められるのである。担当者と学習者らが,お互いの考えの間にあるズレの存在価値を積極的に肯定し,ズレの向こうにいる相手と真剣に対峙し,思いを伝え合い,理解し合うという基本姿勢に立つ時,両者はクラスで出会う様々なズレをいたずらに恐れる必要がなくなり,むしろ,それを自己と他者の考え方の違いを楽しむための端緒とすることができるようになるだろう。すなわち,ズレは,人と人とのコミュニケーション萌芽の種であり,活動型クラスの原点というべきものなのである。

元のページ  ../index.html#175

このブックを見る