早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●1725.ズレは活動型クラスの原点である早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号/2012/168-173が必ずしも選ばないことや,作文と議論の捉え方,クラスの目的等に対する学習者の意識が担当者のものとは離れる現実があることがわかる。それを執筆者らは「ズレ」として挙げているが,この「ズレ」とは客観的にずれているというよりは,あくまでも担当者側から見て学習者が思い通りにならない状況や担当者の目指すものや期待を,学習者に裏切られていると担当者が感じる状況を指していると言える。もっと言えば,担当者は往々にして「自分が正しくて,ズレているのは学習者だ」と考えがちであり,事例からは,担当者が学習者を様々な工夫によって,自身の考える軌道に乗せ直そうとしてきたことが窺える。しかし,執筆者らは今回の話し合いを通して,ズレの前で担当者が最もすべきことは,自身を見つめ直し,その価値観を問い直しながら学習者と向き合うことだという見解を打ち出した。このことは,活動型クラスの担当者が,学習者に主体的な態度や表現を求め,学習者に様々な決定を委ねる一方で,やはり一教師として,自分の目指す方向や次元に学習者を導きたいという思いを捨てきれないジレンマを抱えた存在であることをよく物語っている。学習者を思い通りに動かしたければ,担当者が主導的に指示を出し,学習者が従うという形をとるのが手っ取り早いのだが,それでは「活動型」ではなくなってしまう。かといって,学習者の主体性に任せ過ぎれば,クラスがあらぬ方向へ展開し崩壊するのではないかという不安に,絶えず脅かされ続けなければならない。そのため,担当者としては,学習者が自主的にイメージ通りに動いてくれれば幸いだという本音を心の内にしまいこんで,一見,学習者を主体とするような形をとりつつ,実は,担当者の期待通りに学習者が動くような仕掛けや作戦を考え,パターン化するという手口に陥りがちだ。他方,学習者側も担当者との間のズレによる居心地の悪さを払拭するため,教師が求めているものや模範解答を必死で探ろうとする場合がある。それが「活動型優等生」の,担当者を喜ばせる発言やテーマ選び,レポートを生み出してしまう。このように両者が直接のやりとりを避け,お互いの腹の内をひたすら探り合うところには,もはや活動型クラスの目指す自己の表現や他者理解の姿はない。そうした偽善的な学習者主体の在り方から脱却するには,担当者が学習者との間のズレを直視し,その根底にある価値観を問う必要がある。もちろん活動型クラスの担当者が授業を行う際,己の教育観に根ざした信念を貫くことや明確な目的・目標をもって臨むことが大前提となることは言うまでもない。また,学習者がより能動的に考え,表現することを可能にするために,環境を整備することや工夫を凝らすことは,まちがいなく担当者の重要な役割の一つである。しかし,それらを十分に踏まえた上で,担当者があえて学習者を思い通りに動かしたい気持ちから自身を解放し,学習者操作のパターン化マニュアル化の努力をやめた時にこそ,初めてズレの本質と,その先にある道筋が見えてくるのではないかと思われる。翻れば,学校教育という場には元来,学習者のズレを認めない体質があると言える。教師は学習者を指導し,ルールを守らせる権力を持つ存在であり,ズレている学習者は当然の如く矯正の対象として,ある大きな流れに同化させられる。しかし,活動型クラスは,そのような場になってはいけない。それは活動型クラスが「人は一人ひとり違う考え方や価値観を持つものだから,きちんと向き合ってやりとりをしましょう」という

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