●1664.おわりに早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号/2012/162-167学習者が本当に伝えたいことを気づかせてあげられない,新しい発見を促せない,行き詰っている時に突破口を開いてあげられない時にもやもやします。「一人間として」,これは前回出た「教師でなくていい」ということの裏面ですね。人間としての力を問われる……みたいな。座談会を通して「楽しさ」と「もやもや」は相反するものではないことに気づきました。クラスを「自分でまとめなければ」というプレッシャーが「もやもや」を生むこと,そのプレッシャーはほかでもなく自分でかけていること,自分次第で変わっていくということですね。私の「楽しさ」は徐々に大きくなります。デザインの時は小さな「うふ」,話し合いで「うふふ」,学期末は「ヤッター」と,学期前と末の「楽しさ」の度合いが皆と異なります。学習者を見ながら対応しようと,当初のデザインに重きを置かず,最後の作品に期待し,重きを置いているということに,改めて気づきました。自分のセンスのなさといいますか,教師としてではなく,一人間として感じる時がありますね。「教師でなくていい」と思うと同時に「教師だけであってはならない」って思うのかもしれません。活動型の実践中,一参加者となったり,教師となったりと立場を使い分けるということは,私の場合はないと気付きました。その意味では私は常に「教師」なのかもしれませんが,デザインに関しては軌道修正もありという前提で考えているところがあり,その意味では「教師」ではないのか?と思ったりもして,活動型の教師像にも多様さがあると感じました。「贅沢さ」と「ゴール」は斬新な言葉でした。活動型のデザインは「大変だけど楽しい」とは感じていましたが,「贅沢」だとは思いませんでした。また「ゴール」の設定を私は意識していませんでした。私の「ゴール」の捉え方が,他の人とは違うと気づきました。で,互いの考えに深く触れることになります。教師もこの話し合いに学習者と一緒に参加し,自分の考えを発信します。つまり,「素の自分」を出します。なぜでしょうか。それは自分のことを知ってもらいたいからです。この時,教師はいわゆる「教師」ではなく,「一参加者」となります。知識を与える権威的な立場ではなく,学習者と同じ土俵に立ち,意見を交え,互いの考えに触れ合うのです。しかし同時に,「もやもや」とした感情も湧いてきます。「一参加者」は,すなわち一人の人間です。教師は「一参加者」となれる,その裏面で,「一人間」だからこその力を問われるのです。文法的知識なら「教師として」教えられますが,活動型は「教師として」教えられることはほとんどないのかもしれません。私たちはそのような「もやもや」を背負いながらも,それでもなお「うふふ」の心地よさを手放せません。私たち4人はともに,活動型クラスのデザインと運営を通して「うふふ」と「もやもや」の狭間に置かれています。しかし座談会後,それぞれに座談会内容を振り返ってみると,4人に共通するところもあれば,違和感を抱くところもあることが分かりました。以下は座談会後に各自が振り返った際のコメントです。デザインや運営について互いに違和感を抱くことは,それぞれの教師が活動型クラスに対してそ
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