早稲田日本語教育実践研究 刊行記念号
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●131中山英治/日本語教育における映画の一般的な教材価値と社会参画を支援できる教材価値特集 教室中心主義からの解放/寄稿論文『男はつらいよ』が非言語的な教材価値を持つことを認識することができていた。以下は,その具体的な例である。17)は外国人学生の例で,18)は日本人学生の例である。17) やはり,人はそれぞれである。「○○国の人は,○○です。」とは言い切れない。私は△△の南の方に生まれたけれども,南の人が持っている「婉曲」は私が持っていない。(中略)日本の文化を教育する際に,自分が見たことや感じたものなどを教えるのがいいけれども,「みんな同じではない。」と伝えるべきだと思う。(10春)18) 日本人は〜,文化は〜,というような一般化は,おおざっぱに文化を捉える際に多用しがちであるが,ある文化における母語話者と非母語話者との間を隔てかねない,議論の停滞に繋がる可能性を孕むものだと理解した。(中略)寅さんを観ての感想であるが(中略)寅さんは当初「アメリカ人」という存在を目の青い鼻の高い,気味の悪い存在として自ら壁を作った。マイケルを一個人としてでなく,一般化したアメリカ人という「外」として捉えたわけである。それを衝突という直接・個人的な交流を持って和解したことは興味深く,教材としての教材価値も高いと感じた。(11秋)また,言語形式を中心とした学習ではなく,コミュニケーションから捉えた学習目的を指摘する学生もいて,本授業科目が教育的な文脈と共に持っていた「対象者を限定しない」授業コンセプトに理解を示す言及もあった。19) 日本語学習者が日常生活で,文法や単語の間違いをしてしまうことは避けられないことであるが,初級学習者にとっては小さなミスをしたとしても,コミュニケーションが可能であれば,そこまで大きな問題にはならないだろう。しかし,今回の場面のように,文化的な差異によって,その人の社会的あるいは第三者からの評価にマイナスの影響が及ぶとすれば,文法や単語の間違いよりも大きな問題があると言えるのではないか。そうであれば,日本語教授者は,初級・中級・上級という学習者のレベルに関わらず,日本文化をその学習者の母国文化との違いをしっかりと示していかなければならないだろう。その時,私たちは日本文化を押し付けたりしないように注意することも大切である。(10春)この学生の指摘は,細川(2002,2003)が指摘するところの「個の文化」形成や「言語文化教育の意味」というところまでの意識には至っていないと思われるが,『男はつらいよ』という映画を視聴して実践した活動によって喚起された教材価値に関する言及であり,取り上げておきたいコメントである。5.2 「目に見えない文化・気づきにくい文化」を素材にした教材価値中山(2009)では,『男はつらいよ』の教材価値として「文化的素材としての価値」や「文化のインデックス化」(窪田2007)などを指摘したことがあった。そこでは,「目に見える文化」や「日本事情の教科書と並行する文化的な話題」を整理したのであるが,本授業科目では,これに対応して「目に見えない文化・気づきにくい文化」を取り上げた。この「目に見えない文化・気づきにくい文化」とは,例えば,『男はつらいよ』には頻繁に見え隠れする「義理人情」,「日本人の卑下意識」などである。また,映像としては見えているが,あまりにも当たり前に背景化してしまっている「季節感の表現」などである。例を挙げると次のような指摘である。20) 毎回,寅さんの謙遜する態度が見える。「俺なんか無理だよ」など謙遜する言葉がよく出ている。これら「目に見えない文化」や「気づきにくい習慣」は,すごくいい教材になると思

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